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僕が「僕」である、という病。

自分の記事を見返しながら、「もうこんなに書き溜めてたんか」などと考えておりました。僕。です。
かなり前にも似た様な話をした気はするのですが、何度も同じ話を繰り返してしまうのは、「歳を取った」という事なのでしょうか。今回の記事と、「何で俺は美形に生まれなかった?」と「関西弁が皆面白いと思うなよ!」と「ちゃうねん俺の関西弁はキャラ設定やないねん!」は定期発作です。
駄々を捏ねても仕方が無いので、そろそろ本題を話し始めたいと思います。

※この記事はあくまで自分自身の事について書いていますが、もしかしたら人によって、特に似た様な立場の方は不快な思いをされるかも知れませんので、少しでも不愉快やな、と思ったらそこで読むのをやめて下さい。貴方の心と身体が最優先です。重ねてになりますが、あくまで僕の話です。

▶︎現実と自認のズレ

「僕には身体がありません」「僕は他人の身体で、他人として生きています」という話、いや愚痴は耳にタコが出来るほどお話しているかと思いますが、僕の認識と現実の事実はズレがあるな、と感じたので、書き留めておこうと思います。

僕の認識

何度も書いている様に、僕は「自分の身体が存在しない人物」と自認しております。肉体を得られなかっただけで、「あくまで自分は自分として生きている」という事です。だからこそ、肉体とのギャップに苦しみます。顔貌、身長、性別、名前も戸籍も、そういうものが自認と全て違うから苦悩で転げ回ります。アイツを“他人だと思っているから”です。アイツはアイツでひとりの人間として、僕は僕でひとりの人間として成立していると感じているからこそ、耐えられない違和感を抱きます。
人間性、という意味に留まらず、肉体的な意味でも、恐らく僕は自分を「僕。」だと思っているから、現実的な、物理的なアイデンティティが得られない事に悲しくなるのでしょう。

現実、事実

一方、現実的な書き方をすると、この身体は「ひとりの身体の中に、沢山の人物が存在する」のでは無く、「自分が自分を他人だと認識してしまう」状態であると、僕は思っています。認識の誤作動とでも言ったら良いのでしょうか。あくまで僕達の話にはなりますが、あくまでこの人間の、ひとりの身体から、言い換えるとひとりの脳から僕という人物像は生まれているわけですから、“僕=この人間”である事は、(歯を食いしばって書きますが)覆らない事実なのです。僕もこの人間の一部な訳です。この人間の、特定の思想だったり、嗜好だったり、経験だったり記憶だったり、それを「これは自分じゃないんだ」と丸めて放り出したのが“僕。”ですから。僕は“自分”を「自分では無い」と“認識”していて、僕は“自分の身体”を「自分の身体では無い」と“認識”している。もっと正確に書くならば、自分を自分であると認識“出来ない”状態、と言えるでしょう。向こうが自分であると認められなかったが為に生まれた“僕。”にとって、向こうを「自分である」と認識するのは至難です。

▶︎僕は存在しないのか?

僕には身体が存在しないと書きましたが、では、事実として解釈すると、僕は身体だけで無く、「僕。」という人間性すらも存在しないのでしょうか。
恐らく、僕達を見てそう思う方も少なからずいらっしゃるでしょう。例えば、「どんな貴方(本名)でも貴方(本名)として扱う」とか。「みんな貴方なんだよ」や「どんな人格でも貴方なんだよ」といった発言は、「貴方」が「戸籍の名前」=「物理的な身体」を指すのか、「基本人格の人間性」を指すのかで意味が変わってくると思っているのですが、今回は後者の意味で書きます。前者は実際にこの肉体に住んでいる以上、それはそう、と納得しております。僕は(かめい)ではあるでしょうが、なるや22やゆらちゃんではありませんよ、という具合です。社会生活を営む上で、前者の考えが必要になる場面もあるでしょう。

確かに現実の世界で、物理的に、書類上は、僕は存在しません。それでも僕には、僕の記憶があり、好きなものがあり、受け入れられないものがあり、曲げられないものがあり、考えがあり、感情があり、行動があります。ある筈です。例え同じ脳から生まれていたとしても、それが「ひとつであった頃」と「分かれてしまった今」では、その在り様は違う筈。何より、「僕が僕である」と認識している事。これを以って、僕は僕であると言いたい。同じ身体である事は認めなければならないでしょうが、裏を返せば「同じなのは身体だけ」くらいの気持ちで居たい。実際はそうはならないでしょうが。同じ脳を使う以上、共通点は出て来るものと思いますので。
僕は、「僕が僕である」という事まで、奪われたくない。

▶︎僕が「僕。」であるという病

文章が下手くそになってしまったので端的に書くと、僕は個人を身体で捉えるのか、人間性で捉えるのか、という話になって来るかと思います。勿論相互作用のあるものでしょうから、どちらか一方、と言うより、どちらに重点を置くか、という話になるでしょうが。
少し本論から逸れるのですが、僕がこの話をしようと思った切っ掛けを書こうと思います。僕は和服の羽織を着るのが好きなのですが、ある出来事を境に、人にそれを見せなくなりました。近しい人と羽織を着て出かけた日の事です。僕と居る時には普段通り接してくれていた人が、僕が席を外して、それから戻って来た時、一緒に来ていた別の人に「今日羽織着てたよね……」と、訝しげにヒソヒソと話しているのが、聞こえてしまったのです。その人達は、僕達の状態をよくよく知っている人です。その悪意の無い怪訝に僕は傷つきました。
うちで羽織を着るのは、分かる限り僕しか居ません。だから、彼らからすれば、「普段とは全く違う服を着ている」「症状が出ている」「病気の症状だ」と、きっと、心配してくれたのでしょうね。

僕が僕らしくいること。それは病気で、症状で、おかしい事。
僕が僕であることは、治療上良く無い事。

この病気は、僕が“僕。”である、という病。

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