見出し画像

障害をアイデンティティにしない、と言う事。

こんにちは。随分と久し振りに筆を取りました。
世間では句読点を打つ事がハラスメントと呼ばれる様になったと小耳に挟み、名乗るだけでハラスメントになるのでは、と怯えている「僕。」です。皆様、如何お過ごしでしょうか。
ふと思い付いた事を、今日もつらつらと書き残していこうと思います。僕達が通院を始めた頃から慕っている闘病の先輩がいらっしゃるのですが、先輩が「障害をアイデンティティにしない方が良い」と書いていた事を思い出し、漸くその言葉を自分なりに咀嚼出来た気がしております。そのお話を。

▶︎「交代人格」という、それしか残されていなかった僕。

僕の意識がいつからある、と考え始めると非常にややこしい事になりますので、簡単に2016年としますが、自分が自分に気が付いた瞬間を、昨日の事の様に覚えております。家に帰ってすぐに記録を取りました。Wordで、というのが、いかにも学生らしくて我ながら笑ってしまいます。これは僕だけかも知れませんが、その時の僕には「交代人格である」という、それしかありませんでした(厳密に書くと当時は診断が無かったので、それすらありませんでした)。好きな物も、嫌いな物も、心を動かされるものも、人生史も、何も無かった。僕。として生まれたのがその瞬間でしたので仕方の無い事です。アイデンティティは生まれつきのものと、生きる時間の中で積み重ね、構築されるものとがあると思いますが、生きていない僕には、積み上げるそれが無かった訳です。

だからこそ、僕は“生まれつき”の方に固執したのでしょう。例えば、男である事、関西出身である事、そして、交代人格である事。今思えば僕が僕である為に、生きる為に、存在する為に、拘ったのかも知れませんね。僕には自分を証明するもの一肉体や戸籍、人生、名前すらもありませんでしたから。“それ”に拘る事でしか、自分を確立出来なかったのかも知れません。

▶︎“絶対的”なものを探して

その数年後に「解離性同一症」と診断を受け、僕は出来る限り、病気の情報を集めようとしました。まずは敵を知る事、という訳です。他に病気が無いかも良く確認していました。まず問題を全て揃えてから、揃ったら全部叩こうという魂胆でした。当時の主治医に「診断がいくつついても、特に何のメリットも無いので」という大変ご尤もな助言を頂きまして、それ以降診断名に拘ることは無くなりました。

(余談:当時の自分が聞いたら泡を吹いて倒れそうなくらい、今大量の診断を受けていますが、“診断名”では無く“症状”に対する治療をしているので、診断名に拘っても仕方が無いし、純粋に多過ぎて、最早覚えていません)

DIDに関する文献や論文を漁りましたし、当事者の方の動画を見たり、自伝を読んだり。図書館でDSM-5を取り寄せた時は、流石に他の人格に怒られました。不可抗力というか……、あの重量級のものを家まで運搬させましたので……。ICD-10は図書館経由で、オンラインで読む事が出来たので助かりました。それくらい、僕は「定義」に拘りました。当時学んでいた学問の影響もあるでしょう。僕自身の特性もあるかも知れません。ですが僕は何か、指標となるものを求めていました。絶対的なもの、揺らがないもの。定規の様なものを。自分の中に「確実な」価値観を取り入れなければ、もしかしたら不安だったのかも知れません。別の病気の可能性も考えていましたし、そもそも病気なのか?と思っていました。色々な病気の可能性を考えて、調べて、調べて、考えて、それでも、現実は覆らずに頭を抱えている様な夜もありました。

▶︎僕は障害であるかも知れないが、僕の全てが障害ではない

そんな学生時代を過ごした僕ですが、最近、当時観た映画を某配信サービスで目にしました。DIDを取り扱った作品です。ですが余り心が動きませんでした。学生時代の僕であれば、きっと瞬発的に飛び付いて見直した事でしょう。ですが、今は「あったねえ」くらいの気持ち。過剰に反応しなくなった気がします。うつ病の影響かも知れませんし、難病で身体的に映画を一本観る元気が無いのかも知れません。色々理由は考えられますが、その沢山の理由の一つに、“僕を定義付けられるものが、交代人格以外に育めたから”というものがあるのではないかと感じました。八年前、空っぽで生まれ、“交代人格”という、それしか無かった“俺”。ただそれだけにしがみ付いていた“俺”。ですが今の僕は“僕。”として生きる時間を積み重ね、沢山の経験をして、好きなものも、嫌いなものも、趣味も、友人も、本当に沢山の、かけがえの無いものを得て来ました。“自分”を説明するのに、“DIDの交代人格”以外のものを、得る事が出来た。だからこそ“DIDの交代人格”に拘らなくなったのでは、と僕は思っております。

僕は障害の症状として生まれた存在です。ですが、それが僕の全てではありません。障害は僕を構成する一部に過ぎず、僕は病気ではありますが、病気は僕では無いと、僕は思いたい。

勿論「定義」に拘る事は悪いことでは無いと思います。知識は重要ですし、一本筋が通ったブレない考えを構築する事に繋がります。ただDIDに関しては身体的な病気と違い、数値で明確に測れるものでは無く、「これが絶対的な真実だ!」と現時点で容易に断言出来るものでは無いと思っております。だからこそ医師によって治療法も違うし、今も賢い方々が「こうではないか、ああではないか」と議論している最中でしょう。これはどの分野にも言える事ですが、“正しい事”というものは、多くは時間の経過と共に移り変わるものです。論文や書籍は責任の所在が明確であり、現時点で最先端の“正しさ”だと、僕の中では置いています。DIDに絶対的な真実が見つかっていたら、きっと医師の間でも意見が大きく割れる事は無いでしょうから。専門家が「こうではないか、ああではないか」と言っているものを、僕は論文や書籍を通して垣間見させて貰い、勉強させて頂いている、と考えています。

ちらとだけ診断基準のお話をいたしますが、診断は医師によって変わるもので、診断基準が全てでは無いと思っております。ただ、公約数と言ったら良いのか公倍数と言ったら良いのか分かりませんが、「多くの人が当てはまる物」なのだろうなあと。診断基準と設けられるくらいのものですから。多くに共通する特徴なのかな、と思っております。

▶︎“DIDの交代人格”以外の、僕を。

また長い文章をダラダラと書いてしまいました。スマートな文章が書けません笑。先輩の「障害をアイデンティティにしない方が良い」という言葉を自分なりに咀嚼するのに、八年掛かりました。八年。もう、と言うべきか、妥当と言うべきか。

横道に逸れ、何が言いたいのか自分自身でもイマイチ分からない箇所もありますが。そんな事を考えておりました、という文章でした。

ほろよいのジャスミンライチが美味しい夜です。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?