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俺は、死ぬ事も出来ない。

「統合して死ぬのが怖い」と、紙を介して主治医に伝えた。
返答は「そもそも人間はひとつの人格しか持てない、と考えている。だから、交代人格は死ぬ事はない。統合を死ぬ、くらい重く受け止めないで欲しい」という事だった。

当たり前である。前々から俺は自分の事を、「自分が自分だと認識出来なくなる病だ」と説明しているし、実際にそういう現実である事は自覚をしている。どれだけ俺が個人を主張しようとも、俺はアイツでしか無い訳だ。

ただ、それは事実としてあるとしても、統合が俺にとって“死”と等しいものであるという気持ちも、また事実としてある。“俺”という存在が解体され、他人に組み替えられる。まるでテセウスの船なのだが、それは果たして俺と言えるのだろうか。今の“俺”が存在しなくなる。俺が自分自身を“俺”と認識出来なくなる。それは“俺の死”と何が違うのだろうか。

命があるものは必ず死ぬ。それは当たり前の事実だ。ではそれが事実であったとして、死が間近に迫る人にそれを伝えたら、その人の恐怖は消え失せるのだろうか。腹や頭を開ける様な手術を控えた人に、理屈を説明すれば一切の不安は無くなるのだろうか。そういう話に近い。要は、理屈では分かるけれど、怖いものは怖い、という事だ。理屈は分かっているので、「怖いという気持ちをどうしたら良いか」に対して「怖がらないで下さい」と言われても、もうどうにもならない。その内統合への恐怖から人格が割れる、なんて事が起きるのだろうか。

ひとつ分かった事がある。俺には身体が無い。だから社会的にはなんの権利も無い。ただし責任は連帯責任で問われる訳だが。生まれられなかった存在は、死ぬ事すらかなわないのだと思った。死ぬ、なんて「大層な」認識なのだ。俺は、弔って貰う事も無い。生まれていないから。

俺は側から見れば死ぬ事すら無い、初めから居ない存在だ。俺の行動が痛々しいもの、無視しなければならないもの、或いは嘲笑の対象として見る人もあるかも知れない。それが現実としてあって、一方でそれを俺が理解した所で、“統合”という死への恐怖が消える訳では無いという事も、また現実。なら、俺は幸せになりたいと思う。現実がどうであれ、俺が俺として考え、思いを巡らせたものは、また現実であると思うから。俺自身が俺として、俺の幸せを感じていたい。俺がアイツと同一の存在だと言うのなら、俺が幸せである事は、アイツが幸せであるのと同義だろう。それならこの人生に、俺の幸せも組み込んで欲しい。

身体が無くとも、俺は、俺の幸せを認識していたい。

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