29歳 6ヶ月 <11/19>予定が重なるお年頃

今僕は、わりと暇をしているんだけど、ちょこちょこと楽しみにしてる予定などあって、なんだかそれらがことごとくダブルブッキングしてくる。
あんだよーー!!
全部欲しいのォオレはァ!
ったくゥ。選択しますよ。選択するってことは、なにかを捨てるってことだもんね。何かっていうのは、可能性を捨てるってことだよね。するよォ、うるさいなぁ。

一人で悶々と考えるとちゃぶ台を返したくなるので、冷静になるために日記で憂さ晴らしをしましょう。(「憂さ晴らし」ってこういう漢字かくんだね。なんだか漢字眺めるだけで晴れてきそうな気がします)

なんですって?耐震強度偽装があったそうですね。犯人?の一級建築士のなんとか氏がテレビで堂々と喋っていました。
すごいね。
よく出てこれるね。
もちろん褒めているわけではない。こういう事件の場合、会社のインターフォン越しに「ノーコメント」と言うか、言わないでノーコメントにするかで相場は決まってるんですが、彼は堂々とコメントしていました。
厚顔無恥とはこのようなことを言います。

「よく出てこれた」と僕は感心したんだけど、その裏には「この人は自分の罪からは逃げも隠れもしないという信念」なのかなぁっと想像した結果で、その感想は次に続きます。
「そういう信念で出てきたからには徹底的につるし上げにしてしまえっ」です。
「自分の罪から逃げない信念」と「実際してしまったこと」は当然別で、両者のギャップの「のりしろ」を「徹底的なつるし上げ」が埋めるのです。
ですから普通の人は、「徹底的なつるし上げ」になんかあいたくないので、「ノーコメント!」と表明します。

でも出てきた。しかも厚顔無恥を地でいく様子で。
これは何の意味があるのかと考えると、「オレは悪くない」と彼が思っているからでしょうね。
しかし不思議なのは、「オレは悪くない=あいつのせいだ」があったとしても、「そうそう社会は甘くない」という常識が普通は出てきて、結果「ノーコメント!」になってもよさそうなものです。
でもそうしなかった。彼は堂々と喋った。
なぜか。
僕ははっきり「オレ一人の責任にしていいから、助けろよ」
という根回しが効いてるんだ。と思いました。
例えば国土交通省が今回の事件について会見をするのは異例だと聞きました。なぜ国土交通省は「民・民」の本件に首を突っ込んだか?
当然関係があるからです。
厚顔無恥の彼のコメントは「当然オレには責任はない」と言ってるだけで、建築した会社の書面のコメントも「青天の霹靂」だとか言って、これも「我が社には責任はない」で、国土交通省も「民・民のことなので、国が損害賠償するとかはない」と言って、これも「責任はない」と言っています。
みんながみんな「責任のたらい回し」をしているくせに、濃厚に関係がある。という違和感を、僕は感じました。

「ああ、みんなグルなのね」

です。これはもう完全にグルでしょう。今回の事件は100パーセント氷山の一角でしょう。むしろ一角じゃなかったら不自然です。上記の状況がそのように言っています。

なんだろうかね。イヤだね。ホントに。
「もう聞き飽きたよ!」という根回しと仲間社会の日本は、いつになったら近代を獲得するんだろうか?もうすでに「社会の状況がそれを許さない」というところまで来ているのに。
性犯罪に関する研究もまだちゃんとコシが上がってないし、現代の子供の分析だって手つかずだし、なんでだろう?なんで考えないんだろう?

たぶん既得権だろうな。

僕、最近思ったんですけど、世界ってイビツですよね。で、日本も社会も人間もみんなイビツですよね。だからイビツって正しい状態だと思うんですよね。でも人間はそのイビツを正そうとして帝国主義とか共産主義とか資本主義とか民主主義とか編み出してきたんだけど、この世界をとりまく思想の変化ってのがね、僕は人間の寿命と関係があるんじゃないかって、最近思ってるんですよ。

昔は今みたいに長生きできなかったでしょ。でも人間ってイビツを正そうとするので、社会的統制、統合を図ろうと模索します。そこで帝国主義みたいな独裁が産まれた。50年しか生きれなくても可能なくらい単純な思想だからです。でもどんどん人間は寿命が長くなる。長くなるとどうなるかというと、気が長くなる。「ゆっくり考えてもいいか」が出てくる。そこで登場したのが前近代の思想や主義だったんだろうと思います。
「ゆっくり考えてもいいか」がなければ民主主義なんて発想は生まれません。人間にユトリができた証です。

で、人類はついにメンドクサイ民主主義の道を歩き出した。
これは非常にメンドクサイ。なぜなら「自分のことは自分で考える」と「社会のことは自分に関係があるんだから、自分は他人のことも考える」が共存するということだからです。
当たり前だけど、個人主義とか自己責任とか言って、現代は「自分は自分、他人は知らない」になっています。ということは、少なくとも日本の民主主義とは「自分は自分、他人は知らない」を内包する思想だったということです。で、それが曲がり角に来ている。ていうかもう曲がっちゃって結構そのまま歩いちゃってる。
「自分は自分、他人は知らない」はもう通用しない。だから現代の人類は、民主主義を超える新しい主義を発明する時期なんだろうと僕はなんとなく思います。

思って、ていうか、「どうして神様は人類をそのようなイビツにつくりたもうたか」と疑問が出たりもします。イビツを正す思想が現れたとしても、人間には寿命があって、定期的に世代交代があって、そんでイビツも一からやり直しです。このようにして、世界は有史以来、「人類が永遠にイビツを正そうと模索する」ようになっています。まったくよく出来てますね。
でもどうして神様はそんな嫌がらせするんでしょう。ねェ?
生物学的には、人類という種が永続するために、わざわざイビツにして、危険に対する保険をかけてるんだろうと思いますけど。ほとほと人類というのは矛盾とイコールの存在なんですね。

人類=人間ていうのはイビツで変が正しいあり方なんです。
そしてそれに抗う人間がいることも必要なのです。以前、人類=人間を遺伝子のプールに例えましたがその通りです。

話を少し現実的にします。
しますが一般論です。別に小林さんのことを四の五の言ってませんからね(笑)。僕の思考は常に社会とか他人とか自分とかに向いています。

小林さんも言ってるけど
>生まれるときからへんてこりんな大人の事情をおしつけられてきた私たち世代は、すでに「おかしな子供」なのでしょう。その私たちが子供を育てようとしているのですから、これは大変なことです。

なんだよねえ。
性犯罪とか、ほら、姉妹殺人とか、ね。こないだの親殺しとか、あと隣人の冷たさとかね。隣で悲鳴が聞こえても下手したら通報しない社会だからね。
だからって「昔は良かった」と回帰主義にはなれません。そんなもんは逃げでしかない。

例えば「子供の自由を育てる」「自然に育てる」とか、昔は簡単に言えました。
なぜ簡単に言えたのかというと、先例があったからです。
「自然に育った。自由に育った」という先例です。
今はそれがない。
そもそも答えなんか過去にはない。参考になる一部はあってもそれは答えになんかならない。親を殺す人間、他人を感じられない人間、…は、不自然でなく、「自然に自由に育ってきた結果」だと僕は考えます。そして、このことから、「かつて拠り所にしてきた自然や自由」などはもはや存在していない、ということが導かれます。
だからそんなもんに頼ってると失敗するよ。
ということです。
生物学的な人間の自然も、社会と切り離しては考えられない。本当の天然の自然で育てたいのなら、人間のいないところに行かねばなりません。

じゃどうすればいいのかっていうと、「自然とか自由」とかを-これは全て「社会の中での」という言葉を欠かせません-自分で設定していく、ということだし、「答えのない時代にいる」ということを自覚するということです。

僕の時代はどうもおかしい。僕もおかしな子供で、そんな僕が子供を育てる。

こんな手探りで恐ろしいことはない。

大変だけど、「親、大人、社会、日本」と「僕」は、対偶関係で捉えないと意味がないのです。
両者を補完関係で考えないと、なんとも悲しいことになってしまいます。

「僕⇔親」「僕⇔親を含んだ大人」「僕⇔親と大人を含んだ社会」「僕⇔親と大人と社会を含んだ日本」、ひいては世界。

今の子育ての難しさというのは、
親の雛形(「私はこう育った」)、親の親の雛形(「あんたも親になれば分かる」発言など)、先人の雛形(「親がなくとも子は育つ」など)が信頼できる先例にはならない、
ということに尽きます。それらは参考にできるだけです。

「時代・社会⇔私」から「私の自然」を算出する力=自分で考える力が現代人には必要で、それは「答えがないのが当たり前の時代」である現代を生きる唯一の処世術だと思います。

気合い入れてやらないといけません。

別にことさら「怖いぞ怖いぞ」と脅してるわけではないけれど、この時代に子供を産むというのは、かなり覚悟のいることだと僕は思ってますので、どんどん頭よくなって下さいね。

「私⇔社会」、「私⇔子供」、「子供⇔社会」、「私⇔{子供⇔社会}」です。
今の時代はそういう時代です。

おしまい

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