日々。ぶっ殺し。

眠たい。あれから、仮眠も取らずにyoutube見たり、数時間の散歩に出かけたり、少し本を読んだりして疲れ果てたのだろう。両目から大粒の涙が出てきて、これはやばい、となっている。一応、五分ほどは休憩をとったし、散歩中も、むやみに店内をうろついていたけれど。実を言うと、小説を書けない、と思っていたが、多分、もう書ける、現に頭の中で行くパターンか書いた。また、それに先立って、感覚的に先行小説家の文体を捉える(感覚的、なので、それは分析ではない)方法に価値を見出している。具体的には、川端康成は「ぺたぺたぺた」だが、中上健次は「べたべたずずべた」である。僕はこれまで、こうした抽象的な感覚を具体的な言語へ落とし込むことを重視してきたのだが、抽象的に捉えられたものは抽象的に捉えたままであれこれ操作すれば良いのではないか、と思うに至った。高等数学を学び始めた効果だろう。目がかゆい。ホッカイロみたいだ。よくわからない。頭の中で、いろいろな手紙を書く。学校などへ送る手紙だ。バザーを来週開くそうだ。庭の花を出品しに行こう。それにしても、今日はゆっくり休もう。目がかゆい。健康について、ある行為をして、それが健康に増進する、とは、ある行為をすることで、その行為をしていない時間の生活の質・量が喜ばしい方向へ変化する、ということ。当たり前の事実だが、重要な観点だと思う。例えば、健康のために走る、とは、走ることが上手くなるために走る、つまり、走るために走る、ではない。先ほどから、思考が、スペンサーの「方法の形式」の影響を受けまくっている。こうした思想を外挿して諸々の発想が開かれる、というのも健康になるということである。あるいは、不快感とは、その当の時間を超えて広がるから不快なのである。運動後も残る筋肉痛とか。小説についてもあれこれ思考が発展している、事実今すぐにでも書き始めることができる、が、今現に頭の中にある小説でよろしいのか、という思いがある。もっと別のまるで別の形状を求められるのではないか。古本屋にて小説の書き方講座みたいな本を見たが、まるで間違っており、自信がつくやら自信がなくなるやらである。目がかゆいなあ。図書館では、音楽の雑誌を借りた。雑誌を読む際のコツは、対談記事を演劇風に音読する、である。その際、さまざまな劇を演じるといい。安倍晋三とかも演じてみるといいし、というか、古本屋でシンシアリーという匿名者による韓国バッシングの本を少し読んだが、これ、韓国人を自称しているが、多分日本人だろ、少なくとも、韓国出身であることを証明しているのだろうか、匿名者のブログ発祥の文章である、なんじゃそりゃ。ウィキペディアも見て見たが、特に韓国籍を証明するような証書を提示した過去があるとは書かれていなかった。少なくとも、僕には、韓国人を自称して韓国バッシングをしている人、と認識するのが妥当な気がする。まあ、僕は何にしたところ、この手の著述家はきらいである。極左なんだろうな、俺。「」の中に、部分集合を持つ、という形で、俳句や和歌を小説内に取り込む、ということは可能ではないか、と考えている、が、それだけでは小説としての面白みに書ける。古本屋で見た「小説の書き方マニュアル」では、「冒頭部をいきなり書くな、後回しにしろ」と説かれていたが、僕はこの主張を以下の観点から批判する「小説を書き始めるとは、いつ、なのか、それがそもそも定かではないじゃないか。小説の書き始める時が、いつであるかが不定形であるのに、まず〇〇をしてはいけない、と小説の書き方の時系列を問題にするのは、無意味かもしれない」という主張。ただ、いつ小説を書き始めるかは不明でも、どういう順序で書くべきかは当然論じうる。宇宙がいつ誕生したかがわからなくても、論理的に考えてこのようなプロセスで宇宙が成熟していった、とは論じられうるように。とはいえ、そう論じられるのは、いつが始まりかはわからないけれど、少なくとも順序は論じ得ますよ、というエクスキューズありきの論理だろう。小説の始まりは、書き始めた時だ、と決めてしまっては、そもそも、いつが小説の始まりかわからない、という前提が踏まえられていない。そもそも、いつが(或る)小説の読み始めかも不定形なのも(不定形ではなく、不定量、と表現すべきか?)事実だろう。数学を学ぶのは良いことだな、と思う。目のかゆみが治まる。出版社について知りたい場合は、その出版社がだしているシリーズを一覧でみるといい。そして、その一覧を元に、どのような事業わけを行なっているかを推測するといい。個人レベルの出版社に足りないものは、複数の同時並行に存在するシリーズだ。出版社内部分集合。youtubeはプロ棋士の将棋解説動画を見ている。流石に、動画だけでは覚えきれないが、かなり効率よく学習できる時代になったものだな、と思う。将棋に関していえば、普段人間は他人の思考、他人が何を考えているか、にすごく無頓着なのに、将棋のようなゲームになると、相手の思考に興味を抱き、そこに対話が成立するのが不思議である。世界には何が必要なのか。世界の必要を食い破る、というより横断する作品。作品はシリーズを超える。シリーズとは、雛形とは何か。今晩は父と風呂屋に行きのんびりする予定である。のんびりもせねば。しかし、こうした未来の計画を思い描く際、僕はあたかも未来を先取りしたような気にもなる。これも健康という概念とか変わるだろう。未来の自分が眠るから、今の自分がこうして目覚めていられる。ポケットモンスターバトルのチャンピオンと格闘ゲームチャンピオンについて興味がある。というより、何事につけ、世界一の人については、無条件で調べたい。案外世界一は山のようにいるので、逆にいえば世界一以外興味はわかない。僕は小説内作法によって小説街の読者の感情を手玉に取ろうとする作者がきらいである、というのも、小説内の悲しみは、読者を泣かすためではなく、登場人物を悲しませるために、存在すべきだからである。なぜ、登場人物という目的を超えて、読者を泣かせようとするのか、訳がわからない。読者が同情深い人間ならば、たまたま登場人物の悲しみにつられて泣くかもしれない。しかし、そうでもないかもしれない。また、登場人物を読者の供物に捧げる作者は、作品を、放り出す。というのも、彼らにとっては読者の感情をA地点からB地点を経てC地点へ着地させることが目的であり、登場人物が、どこへ行き着こうが、どうだっていいからである。小川洋子さんを念頭に以上の批判を行っている。というより、夏目漱石の文学論に合致する小説はあらかたそうかもしれない。また、同様の関係批判は、登場人物と世界との関係にも当てはまるだろう。僕は僕と同レベルで文学について話せる人間が欲しい。いない。だから、欲しい。子供を育てるために学ベルことはいくらでもある、心理学とか、一つ一つ学んでいこうと思う。人が人を教える。よくわからない。物語を作るということ、繰り返すということ、例えば、四季、桜。連日の読経で喉が痛い。今日も読経をしたいが、少し無理かもしれない。度胸ができないと暇だな。週に一日は休息日は必要なようだ。逆にいえば、週の五、六日間を文学のために生きるとして、残り一日二日を別の人生に当ててもいいわけだ。何がいいだろう。体を鍛えるのは、疲れるしな。将棋、武術、絵、家事手伝い、三日頑張り一日ぶっ倒れる、だとしたら、ぶっ倒れつつできることって何だろう。SNSでも、再開しようかな。SNSは時間の浪費だと思って、一旦は否定したが、時間を浪費している人たちとも繋がらなくては、とも思っている。喉の調子は本格的にやばい。だから、それころ週に一日一切声を出さない日を設けるのも良いだろう。音楽を聞く日、映画を見る日、あるいは、しかし、音楽や映画を視聴するのにも金がかかる、僕には今、そういう金は少ない。まあ、候補は、武術、ダンス、将棋、ランニング、である。もっと趣味を増やしたいものだ。楽器とかやりたいな。絵や折り紙などにも取り組んでもいいだろう。まあ、とても調子が良いのは事実だ。


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