徹夜。赤目。ぶっ殺し。

徹夜したばかりなので、眠い、はずなのだが、シャワーを浴びた直後なので眠くはない。が、頭はあまり回転していないのか、今、かいてんをかいていと打ち間違えた。眠気もやがて蘇ってくるだろう。昨日は、PC画面を比較的長時間見ることが多かったためか興奮が続き眠りに落ちる気になれなかった。虫の鳴き声なのか耳鳴りなのか判別できない音が聞こえる。識別と判別の使い分けに悩む。識別、というと、二つ以上のものがそこにあり、それぞれを区分けして認識するって感じがする。判別は一つの対象が目の前にあり、それが○であるか×であるかを判定する感じがする。昨日は、将棋にハマっていた。若年層の子供と接することができるのも楽しいし、ゲームそのものも楽しくなってきた。客観的に判断して、僕の読む力と対戦相手の読む力には差はない。同じくらいの性能の計算速度だ。差があるのは勝負強さの有無、というわけで、惜しいところで負けている。序盤で優勢に立ち中盤でその優位を生かせず劣勢になり終盤で追いすがるが負ける、というパターンが多い。とはいえ、性能の差で負けているわけではないので、気楽である。目が充血している。そりゃあ、仮眠しかとらず、PCで読みたい本リストの作成とかしていたら目が赤くなる。過去一~数年に渡って出版された新書、選書(新書よりちょっと専門っぽい本)の一覧をチェックしていた。こんな風に百冊千冊単位で題名を眺めていると、各出版社ごとに特色があるのだなあ、と気づかされるが、どのような特色があったのかは忘れた。確か集英社を少し見直した気がする。新書は寝ながら読める軽い本という気持ち。重めの本を読みたい気分なので、重めの本の片手間に息抜きに読みたい本を浚っていたのだ。図書館で貸出可能なものをチェックした。新書はとどのつまり時事ネタが多いので、過去一年分の新書をざらざらと流し読みしておけば、ちょっとした半可通にはなれそうだ。時事ネタから完全に離れてしまうと寂しくなるから、それなりに付き合いたい。岩波ジュニア新書の刊行点数が少ないのが意外だった。僕の中では、もっと月三、四冊ばかすか出しているイメージがあった。さて、特に書くことがない。というか、小説のことを一切考えていなかった。まあ、今日くらいいいだろう。いや、後で考えるよ。読みたい本といえば、夢野久作の「ドグラマグラ」を一向に読まない。そのうち読もうと思って図書館から貸し出しもしていない。気がかりである。夢野久作は、なぜか、ドグラマグラ発表以前の作品はそこそこ読んでいる気がする。長編に限っていえば、江戸川乱歩より夢野久作の方が文章うまいなあ、と感じる。文書というか、どの文面でもなんらかの情景が伴っているため、単調な説明的な会話文にも読み応えがある、というか、会話文中心の紙芝居に印象が似ている。地の文がほとんど含まれない会話文というのはやはりなんらかの情景を込みで読み解かないとつまらない、淡白になる。その情景が、単に不審者がいる、や、凄惨な殺陣がいま行われようとしている、などでは、興が乗らない。かといって、夢野久作のような耽美+猟奇(+より、ニアリイコールの方が適当か)も、飽きている。先日書店にて立ち読みした本に、先賢の思想に触れることは、ある事柄について賢い人が十分に考え尽くしたので、その思考はもう前提条件にして、そのさらに先を考えないとダメだよ、という趣旨のことが書かれていたけれど、僕は不満足だった。例えばだけれど、夏目漱石の「それから」の代助が、いきなり猫又と化し「我輩は猫である、名前は代助だにゃあ」などと言い出すパラレルワールドを考えても良いと思うからだ(その立ち読みした本の筆者は、夏目漱石を男女間の自我の衝突を描き尽くした人物として例示していたので、ここでは夏目漱石を例示したが、大した記憶が残っていないので、ずいぶんと適当な霊になった。まあ、前編夏目漱石後編夢野久作みたいな合作小説が存在しても良いのである。多分、それなりに面白いだろう。というか、人工知能の応用可能性の一つだろう。ともあれ、彼は議論の単純化のためにそのように論じていたのだと思うし、まあ、概ね賛成な気もするけれど、その考えはつまらない、と僕は思ってしまうのであった。彼は、無人島の例を自作していた。よくある例なのだが、あるところに無人島で生まれ育ち、一切文明知に触れてこなかった男がいた。ある日彼は文明国の漁船に救助される。彼は喜び勇んで、小学校程度の算数を自分が成し遂げた偉大な発見として漁船船長に誇る。人類の知的体系から疎外されたらこんな悲劇が起こる、という例え話なのだが、半分納得なのだが、一方でうるせえ、と思うのであった。事実、半ば網羅的に新書を読もう(と言っても、そんなじっくり読むわけじゃないし、飛ばし読み、興味のある賞だけ読み、などになると思うのだが)と思っているくらいだから、僕は知識は多いに越したことはない、また知識とは体系化されたものをいう、と思っているわけだけれども、それはさておき、無人島で生まれ育った彼個人にとっては、この例え話は悲劇でもなんでもないだろう。あ、そうなのか、である。仮に、船長に馬鹿にされたり、こいつは知能が低いから奴隷にしてやれと暴力を加えられたりしたら悲劇だが、ただ単に、自分が発見したことみんなも知っていた、それがどうしただろうし、また、自分が発見したプロセスや体感は彼自身のものだろうし、そもそも彼がこのように小学生程度の算数を誇らしげに初対面の船長に説明しているって点がちょっと感動的だし、そこにコミュニケーションの可能性が見出せる。つまり、彼は、数学を研究しそれを発表する、ということで数学以外の別の何かを研究し表現していた可能性がある。そもそも「それは先人が述べたことだから」というだけで自ら文を綴ろうとしないなら、ラブレターもウィキペディアのコピペで済ませばいい。とはいえ、これまで先人が一切考えなかった領域に思考を踏み出したい、という欲求は僕にはあるわけで、そのためには、それ相応の学びが必要なのだな、と覚悟はしている。)。僕にはなんとなく嫌いな人たちが、何人かいる。作家の小川洋子さんとか。彼女の作品は技術的に優れている気はするのだが、彼女の作品を読んでいると、僕自身の感情を思うように弄ばれているような気がする。ここで話を小川洋子さんから切り離し、僕がどのような小説を嫌っているかを考えると「作品内の情動、情景を操作する作品は楽しい」けど、「作品内の人物、描写などを組み合わせることで、読み手の感情をある方向へ操作しようという小説好きになれない」となると思う。いいまとめ方だが、ちょっと同語反復が過ぎる。橋本治さんのように読んで面白い安心して身を任せていられる文章と俺の文章は程遠い。俺、という認証を使えば少しは、橋本治っぽくなるのだ、いや、橋本は、俺、とか滅多に使わなかったと思うけど。でも、僕だと、どうにも、きれぎれになる。ちょっと歩いて立ち止まって、ちょっと歩いて立ち止まって、となる。ああ、急に大学生の頃の不愉快な感情が蘇ってきた。あいつは俺を全然評価しなかった、なんであの頃の俺は、俺を評価しない人間のご機嫌をとっていたんだ。腹がたつ。が、こんな風に腹がたつことも、無意味である。何しろ、俺はもう大学生じゃないんだ。あいつ今頃死んでると嬉しいな。嬉しくもないか。昨日はyoutubeとかも見ていた。藤井聡さんの動画や前田日明さんの動画を見ていた。大阪都構想についてこれまで興味なく調べてもいなかったので、その問題点についてなど藤井聡さんに教わる。藤井聡さんの文章をどこかで読んだ気がするのだが、あるいは、何かの講演で見かけた気がするのだが、思い出せない。今日はまだ日の出まで二、三時間あるけれど、今日はどのように過ごそうかしら。目が疲れている。だいたい疲れると右目目頭の太めの血管が痒くなるんだよな。左目じゃなく。利き目が右目だからか。今日は将棋は避けよう。将棋本を読んで学ぶに止めよう。永瀬拓矢さんの「負けない将棋」って、この文章、ただの読書日記なのかな、とりあえず読んだ本とか読みかけの本とかを文中に登場させたくなる。話題にもなるし、ともかくその「負けない将棋」って本を読もうかしら。昨日も底歩を打ちまくってマンだことを活かした。負けたけれど。いや、機能ではない。日は跨いでいた。意識が混濁してきている。指先がかゆい。なぜか図書館から無断で借り出している原民喜の詩集でも読もうか。でも、暗いんだよな。明るいっちゃ明るいけど暗いんだよなあ、やっぱり。別に図書館から無断で駆り出すつもりなど毛頭なく、なぜか気がついたら、借り出し操作が行われていない原民喜の刺繍が僕のかばんに入り込んでいただけである。というか、司書さんのミスだ。出入り口の機械が警告音を発しなかったのが不思議だけれど。まあ、そんなひっきりなしに読まれる類の本でもないのでのんびり読み終わって返却しよう。この頃出版社の名前をずいぶん意識できるようになった気がする。以前はみすず書房くらいしか知らなかったからなあ、あと、作品社。世の中には地道な出版社が多数あり、それぞれにテーマがあることに驚かされる。全世界の出版社の生成消滅する様を、俯瞰する視座で眺めて見たいものだ。たった一人の思いで、出版社が継続することもあるまい。何かを作り続ける場を作り続けるってどういうことなのだろう。けど、出版社作った人って、岩波茂雄と角川春樹と見城さん(下の名前は忘れた)くらいしか思い浮かばない。見城さんの下の名前を思い出そうと踏ん張っていたら、何を書きたかったのか忘れた。ぽりぽりと頭を掻く。当然、この文章は、いちいちそんなことまで実況中継的に掻くなよなって文章でありながら、実は僕は、ぽりぽりと頭など掻いていないし、けど、後日この文章を読み返した僕は、ああ、あの時はぽりぽりと頭を掻きながら、もうなんで掻くが書くに一発変換されちゃうんだ、まあ普段の使用頻度から言えばそうなのか、などと納得と反発を同時に、文章のまとめ方がわからなくなる。こんな文章を送りつけられる方もたまったものではない。鼻がかゆい。かゆみというのも連想に似ている。いや、連想と似ていない物事の方が稀ではあるけれど、鼻がかゆいと俺が思う時、それは俺が連想にふけろうとしている瞬間とどこか似ている。なら、逆に、俺の連想を文章に残し、その文章を誰かが読み、やはり、一人称は俺の方がしっくりくるな、しかし、このしっくりくる感じを何故にしっくりくるかという視点で言語化したくはない、嘘くさくなってしまう、その文章を誰かが読み、俺の連想に触発される形でその誰かが連想を作動させたなら、その連想も、あ、鼻がかゆい、に似ているわけで、俺は文章について考えている、さておき、その花のかゆさに似ているところが、連想と臨場感を引き合わせる、のか。連想とは、本来繋がり得ないものをつなげる操作だが、臨場感とは、様々な物事が繋がっているものとして感じられることだ。連想は、「繋がっていないもの」が「繋がってしまうこと」であり、臨場感は「繋がり続けていること」つまり、この二つは矛盾しているはず、でもあるんだ。いや、実際のところどうなんだ?知らん。俺は、この文章を書きながら、人に読ませる、拝ませる文章ってなんなんだろうってことを、事後的に、同時的に模索していきたいと思う。まだ、語彙もおぼつかないけれど。使い慣れた言葉ばかり並べてしまっているけれど。使い慣れていないことばを使うことに慣れたい。しかし、それは立ち止まることとは少し違って、なんというか、林立するって感じだ。開業もせずに文章を書いていると、だいたいこのくらいでパソコンが重くなる。パソコンを虐待しても益がない。また、あとで続きを書こう。

今回も楽しく文章を書いてしまったが、俺は小説を書きたいのだった。小説のことほとんどなにも思いめぐらしていなかった。

一時間ほどでこれを書く。しゃべっているだけか。

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