と殺してやろうか!!前編

相変わらずシッコを我慢している。

体に良くないな。

先日「部落解放」ってざしを読んだ。おもろかった。小学校教師の方が、自分の授業づくりについて解説してたりして、ほへ絵、と思った。短い雑誌だったので、一冊まるごと音読した。

その号の「部落解放」ではと畜業と学校教育が特集テーマだった。

図書館で適当に借りて読んだから、だいぶ前の号かもしれない。覚えていない。

そこで、と畜業に携わってられているTさんも寄稿されていた。面白かった。

けど、一つ僕には気に食わないところがあった。Tさんは小学校などでの命の授業へ講師として伺うそうなのだが、と畜業についてTさんが説明し、また、と畜場の見学を経た後も、子供達は、別に肉を食べられなくなることはない(だから、命の授業などして子供達が肉を食べられなくなったらどうするんだ、という批判は見当違い)と説明されていたのだが、

僕は「もし仮に命の授業経て、子供達の一定数が「肉を食べなくなった」としてもいいじゃないか」と思うのであった。

まあ、その点だけ、違和感があった。けど、Tさんの「殺す家畜のことをかわいそうだと思ったらこの仕事をやめます」(記憶頼りの引用なので細部が違うと思います)という説明には、ほへえ、と思い感銘を受けた(気がします)。

僕は、そもそも「命の授業」の結果子供達が肉を食えなくなったら問題だ、って考えが前提として受け入れられない。

仮に「命の授業」という体験を通し、子供達が自発的に「肉食わなくてもいいかな」と思ったなら、それはそれでいいし、「まあ、それでも肉喰いたいな」ならそれはそれでいい。

「喰いたくないから、食わない」と「食えなくなる」は別問題だろってツッコミはさておき。たしかに、「肉が食えなくなる」そういう洗脳を施すために「命の授業」を行うなら問題だ(実際そんなことないそうだけれど)。

いつだったか、学級で豚を一頭買い、最終的にその豚でソーセージを作るという命の授業をTVでみた。いい授業だとは思うのだが、少数意見をすりつぶす授業でもあるな、と思った。選択肢が一つしか用意されていない。

その豚を殺したくないって子もその豚を殺してソーセージを食いたいという子もいる。けど、豚は一頭しかいない。だから、最終的にどちらかの意見がすり潰される。空想的な意見が生き残れない。最後まで自分の意見を言い張ることができない。豚がソーセージになった後も、豚は殺したくないねん、という意見を保持できない。保持してもいいはずなのに。

まあ、豚はソーセージになればいいのだ。殺せ殺せ殺せ食おう。

授業の価値って、「ある体験を子供たちに与える」その結果「子供達が自発的にある選択肢を選ぶ」その結果「様々な選択肢へ思考の幅が広がる」その結果「この世界について納得と理解が深まる」って感じで、この全ての家庭に価値がある(最終結果を得られればそれでいい、じゃない)、と思う。いや、今シッコ我慢しながら適当にまとめただけだからなあ、穴あるだろうね。ああ、シッコ。

まあ、豚肉は食えばいいんだよ。

けど、俺は同時に、日本人は食文化について洗脳されすぎだよ、と思う。

続く。


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