ぶっ殺し通信。固定的な価値観について。ぶっ殺し。

僕たちは、ある対象xに対して、xはAだ、という単一の決めつけのまま生きている。ある対象Xに対してXはAだ、と思うこと(XとAの内容はなんでもいい。ポジティブなものでもネガティブなものでも価値中立なものでも。)は、それがどのような組み合わせであろうと、レッテル貼りです。例えば、Aさんは、韓国人で、韓国人はアホだ、みたいな。

けど、例えば、量子力学の考えを応用すれば、XはAでありまた、Bである。かつ、AとBは両立不可能な性質である。と捉えることもできる。あるいは、ネルソン・グッドマンのグルーのように、Xはある時はAであるが、やがてBになる性質のものだ、と捉えてもいい。もっと複雑な、捉え方もできるだろう。例えば、犯罪者はひどいやつだ、けど、そんな長期の懲役を課したり死刑にするのはかわいそうだ、とか。

こういう風に、XはAでもあるけれどもBであり、CなDだ。みたいな、複雑な構造が、なぜ生まれるか、というと、そこに同情とか主格の動転といった人間の心の働きが存在するからです。

先の例では、「犯罪者はひどいやつだ(とみんなが思い、また自分もそう思うけれど)、けど、(もし自分や自分の身近な人がそんな目にあったらと考えると)長懲役刑や死刑はかわいそうだ(と自分は感じる)。」といったように、Xに対する距離感や何がXを見つめているか、という視点がぶれぶれにぶれている。

視点はぶれたほうが、多様な価値に気づけいい。だから、人間として軸がぶれているのは、いい。逆に、たくさんの軸を持って生きている、ってことだろう。

僕たちは、他者に対して、あなたはAだと決めつけてコミュニケーションをとりがちだ。そして、それゆえに他者を評価してしまう。あなたはAだが、ある条件を満たせばSSになれる、という評価だ。

だが、このある条件になればSSになれる、という評価は、あなたはAだ、というX=Aという単一の決めつけが前提になければ成立し得ない考え方だ。

逆に言えば、X=Aという考え方から脱せられないと、ある条件Qを満たせばPになれる、という条件評価から抜け出せない。

僕たちがある条件Qを満たした結果Pになれたとしても、それでは、XはAであるという固定的な認識を再強化してしまい、認識の幅は広がらない。

まあ、端的にいうと、それじゃ、差別は無くならない。

以上の考えは、かなり抽象的な説明ではあるけれど、さまざまな社会的問題を解くためのよすがになる。例えば、ヘイトスピートとかストーカー(被害者も加害者も含め)とか、前科者への差別とか、いろいろね。

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