ぶっ殺し講義。視野サウスポー戦略。思考について。ほか。

右目は相変わらず不調である。ただ、痛みは感じていない。ただ、爆弾を抱えている感じはする。いつ痛みが再発してもおかしくはないな、なので、本日も安静を心がける。自分が日々書く思考ノートをnoteに公開することが楽しくなりつつある。基本的にSNSでのコミュニケーションは軽蔑している。お前らほんとに別の人間かよ、と思うほどそこで行われる馴れ合いは類型的だ。というか、僕はいわゆる、note的な文体がとても気持ちが悪いものとして認識している。確かに初見さん一見さんに対して親切で伝わりやすい文体なのだろうが、しかし、そこに込められた情報量情報密度は樋口一葉の10000分の1くらいである。それは相当やばい、コミュニケーションの劣化だ。文章はそれ自身パフォーマンスでもあるべきだ。その辺のことを知りたい方は、橋本治の「失われた近代を求めて」を読むといい。右目が疼くので、右目への負担を減らすべく、眼帯を装着しようと思ったのだが、眼帯をつけると眼帯にメガネが引っかかってメガネがかけられない。困った。昨日はしばし眼帯をつけて右目を休ませた。一時間ほどして眼帯を外すと、眼帯をつけないでいた左目の視界が右目の視界に比べてぼやけていた。眼帯をつけるということは眼帯をつけない方の目に対してそれなりに負担なのかも知れない。あるいは、もともとの左右の視力差が体感されただけか。ともあれ眼帯は効果があった。目が休まっている感じがした。眼帯には他に、利き目を入れ替える練習という効果も期待している。俺は効き目が右目なのだが、眼帯を多用することで、強制的に左目でものを見る時間を作り、結果、利き目を自由自在に入れ替える能力が身につかないものか。スポーツなどで、サウスポー選手やサウスポーとオーソドックススタイルを自在に入れ替える選手がいる。彼らは独特の強みを発揮する。じゃあ、目の利きを自在に入れ替えたらどうだろうか。当然距離感が微妙に変化するだろう。もしかしたら、だが、右脳と左脳という区分けがどの程度脳機能の分類に役立っているのかはちょっとここ最近の脳科学を追いきれていないので良くわからないが、何か右目で見るとよくわかる分野、と左目で見るとよくわかる分野、があるかも知れない。例えばだが、幾何学の問題を解くときは左目で考えるといいね、みたいな。代数学の問題を考える際は右目がいいね、みたいな。この発想は、なかなかレアだと思う。レアな発想を集めてそれなりに修行を積み重ねると、他人から見て達人となりうる。俺のすごいところは、驚かないところ、である。まあ、訓練している。俺は正直、頭の回転がいい方じゃない。が、こんな一日5000〜10000字程度の相当程度濃密な思索性を持つ文章を軽く書けるのは(俺はマックスで位置に10万字書けるので(一時期一日10万字書くというのを修行にしていた。半年しか保たなかった。PCのキーボードが。)、単に一日中考えているから、だと思う。大抵の人間は一日のうち五分から一時間程度しか真剣に考えないだろう。が、二十四時間真剣に、人類の滅亡危機条件をリストアップして、それへの対策を練ったり、児童虐待や刑法の不備についてあれこれ考えたり、自分が市長選に出馬する際の選挙戦略を練ったり、小説理論を構築したり、父が株をやっているので父へのアドヴァイスを考えたり、している俺は多分、ちょっとした超人になっているのだと思う。今日も三時間しか寝てないのに目と喉以外特に疲れていないし。なんだか、これを書いていて嫌なことが一つある。それは、読者を幅広く想定してしまっていることだ。初めて俺の文章を見た人間でもそれなりに理解のとっかかりが得られるように文章の所々で本来はいらぬ説明的言辞を弄している。俺は親切なので、ついついこういうことをしてしまう。ただ、これをやると文章と思考と思想の強度は下がる。右目の爆弾が少し疼いたので名目目をつぶりながらこの文字列を打つ。誤字してない遠いっけれど。あ。株について少し頭を働かせている。父が株をやっていて、その株が少し焦げ付いているからだ。正直父の株取引は、ただバブルに乗った結果ビギナーズラックで勝ってしまったがその後ドカンと損してしまったという感じだ。僕は株など、金の奪い合いで、自分が得すれば誰かが損する以上そんな発展性のないことに時間を投じるのは馬鹿だろう(ただ、バカはバカでいいのだ、人間バカな行為をすることが必要で、大事ってこともある。二度寝とか)、と思っているから、身近な人間が株で困っている、という状況がなかったら株を学ぼうというモチベーションはわかなかったろう。ただ、今は割と強く関心がある。それは、株を学ぶこと、が、単に株で利益を出すために学ぶ、ではなく、身近な人を助けるため、親子間コミュニケーションをより面白くするため、他者に何かを教えるという経験と研究のため、などなどかなり複合的な多重の理由づけがあるからだろう。というより単一の理由で行動するのはアホらしい。単一の理由で行動している場合は、よほどそれが好きか、さもなくば、他者から洗脳されている場合だろう。驚く、という心理現象を皆もう少し内省したほうがいいと思う。逆に言えば、そんな簡単に冷静じゃない状態になっていいのか。冷静をそんな簡単に手放していいのか。理想はいきなり目の前に宇宙人が現れても驚かないこと。仮にグレイ型のエイリアンが現れてそこで「ぎゃあああ」と叫んでいては、異性間コミュニケーションの可能性は断たれるだろう。「あ、宇宙人っぽい存在がいる。本当に宇宙人か道の地球生命か、はたまた人工生命かわからないけれど、ちょっと挨拶しておくか。こんにちは」くらいの反応を示せないと、宇宙人と挨拶を交わせない。今度スペースワールドへ行く機会があったら、挨拶してくるといい。一般のダジャレとはA is A’という構造を持っているものがおおい。俺が小説中で多用する言葉遊びは、この構造ではない。例えばこんなだ。A∝S’ B∝S’’ S’≡S’’(mod n)みたいな感じだ。もっと色々バリエーションがあるが、わかりやすく言えば、ある地点(ある言葉)から、無理やり他の地点へたどり着く、他の言葉を引き出す、が一般的なダジャレで、それはそれで深いのだが、また、ダジャレのほか和歌や俳句などもその傾向が強い、だから、和歌や俳句はやや味が薄い、俺の場合は、ある複数の地点(言葉)からそれぞれに他の複数の地点へ互いに異なる方法で接触し合い複合的だったり双方向的だったり、あるいは、一方高から一方公の流れ、ではなく、ある状態、構造を提示する、というものだ。これはなかなか奥が深い。ちなみに井原西鶴や幸田露伴の文学などはこれである程度説明できる。多分、西尾維新さんの文学もある程度これじゃないかと思うが、少し自信がない。ちなみに、俺の文章が時にとても長々とするのは、一つの文章の中に複数の視点が共在しているからだ。俺はある言明を立てようと文章を書き始めるが、その途中途中で他者の視点を打ち込むのである。俺は俺の視点で書き始めた文章を途中途中で他者の視点の元リライトし、また自分自身の視点へ戻ったりする。それは注釈的文章、ということでもある。ただ、今は読者の視点に立つのが面倒なので、これがどういうことなのかは注釈しない。しかし、あなたと話している相手がいきなりあなた自身に成り切って、あなたじゃない相手の口から言葉を発し始めたら、ちょっとびっくりして面白いだろう、そういう感じを学ぶためには仏典のジャータカ物語がいい、あるいは禅問答、座禅、瞑想。唇が傘か貸しているな。カサカサしているな。わけがわからないな。子供達が未来の自分自身について考えるのは、経験不足ゆえ少し難しいだろう。じゃあ、ど売ればいいか、他者を思いやる心を育んでやればいい。つまり、「未来の自分のことを今の自分と同一の存在として思えない」なら、「未来の自分のことを自分とは異なる他人」と捉えればいい。しかし、自分の行動や考えが未来の他人にそこそこ強く影響する、という事実を伝えて。で、こうなる、「今、母親をぶっ殺したら、未来の他人の自分がちょっと悲しむかもなあ」うんぬん。ただ、こうした発想は子供達の自由な行動を抑制する可能背もある。これは要注意だ。だいたいの大人たちの教育は、良かれと思って(といいつつよく分析するとそれ、ただのエゴの塊なのだが)、子供達の行動を思想を検閲して抑制している。まあ、例えばだけれど、仮に子供達が体調を崩すほどゲームなどに熱中しているとすると、このまま体調を崩し続けるとそこそこ重大な後遺症が「未来の他人」に現れるかも知れない(残る、ではなく、この場合、現れる、という感じが正しい。ある意味で、他人と自己とは常に同時に存在しているものだ。例えば、織田信長という他人はあなたと同時に存在しているだろう。未来過去の自分も他人として捉える、とは、未来過去という観念を捨てて、未来過去の自分を、事故と同時に存在する他者として捉える、ということだ。というか、同時に存在する、と考えられなければ、未来過去の自分を他者とは思えないだろう。もっとくだけて説明すると、あなたは、あなたの既に亡くなってしまった祖父をリアリティをもって思い出せるのは、あなたと祖父が今もまだ同時に存在している、とあなた自身の認識の仕組みが思っているからだ。ってところか。ちょっと理屈っぽくなった。あまりこういうもって回ったもつれて(ろれつが)回った言い方は好きじゃない。こういう言い方するやつって大抵嫌いだからだ。)、その場合、未来の自分=自分と相互作用性のある他人が、いきなり後遺症を患っちゃかわいそうだな、と思えれば、ほどほどにゲームを楽しめる。かわいそうだな、と思うことは割と大切である。身近な人間に対して、かわいそうだな、と思って接せられると、その他人の可能性が広がる場合が多い。こんなことで行動制限しちゃかわいそうだな、ってことだ。父に株を教えているが、株について考え始めて三日くらいだが、既にいくつか理論を作ってそれを伝えている。僕としては、理論(株運用理論もあれば、株学習理論もある)だけ伝えてあとは父が自力でその理論を運用し株で儲けてくれたら、楽でいいな、と思っているが、たぶん、そう、うまくはいかないだろう。というわけで、そのうまくいかなさを研究する、という楽しみもある。また、うまくいかないにしろ、何かしらの副作用はあるはずなのでその副作用を育て発展させるという研究も含みにある。また、目が疲れてきた。ちなみに、ここまで、40分ほどで書いている。そんな急いでいつもリモ、文章を水増ししているつもりもない。途中途中目をつぶってぼんやりする休憩時間まで取っている。話を戻すと、何の話だっけ。そうそう。父に株を教える中で自分の新しい可能性を発見している、という話だった。だが、別の話へ移ろう。目や喉の痛みと付き合う中で、痛みやダメージの構造について考えるきっかけを得ている。例えばの話、昨日はふと、喉が痛む=喉が炎症を起こしている、としたら、咥内をできるだけ清潔にしたほうがいいな、だって、咥内細菌が炎症部に移って繁殖し、さらに炎症が長引いては困る、と思って、二、三度歯磨きをした。俺はこれまで日に一度しか歯磨きしておらず、それで虫歯になrないんだからいいだろう、と思っていたのだが、風邪や喉の痛みを短期間で終結させるために、喉の痛みを感じている間は戦略的に頻繁に歯磨きをする、というのはありだな、と思うに至った。また、これを書きながら、食物を嚥下時の影響について考えている。ちなみに、父に押している株の考え方はそのうちここにも書くつもりだ。今日はこの辺で終わろう。

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