嫉妬について。代議士について。高校の総合的学習について。ぶっ殺し通信。

右目の痛みは一進一退。概ね良くなっているが、夕暮れから朝方にかけてやや痛みぶり返す。昨日のトレーニングのおかげで今日はぐっすり眠れた。僕は自分の不眠症に陥るほどの思考力を高く評価している。睡眠薬などでこの能力を矯正したくはない。となると、僕の今後の生活リズムは、週六日考えまくり不眠症気味、週一日トレーニングしまくり爆睡、でうまくバランスを取れないものか、と勘案している。この頃、自分の文章がいわゆる学校国語的な文法からだいぶずれてしまっているな、と感ずる。主語と述語が合ってないやん、と。でも、意味内容はそれ相応に汲みとれるだろう。文章が上達するとはこういうことかもしれない。目についてはは、今後直射日光が強くなるシーズンなので、注意を新たにしたい。眼帯を用いての利き目チェンジ訓練も気が向いたらやって見たい。シーモアパパートも、左右逆転するメガネ、上下逆転するメガネをかけて一時期生活していたそうだ。好奇心の発揮、とはそういうものだと思う。当然現在筋肉痛なのだが、いい感じの筋肉痛だと思う。以前ウェイトトレーニングを経験した際のそれは、明らかに痛みであり、腕が上がらなかったり、といった症状もあった。筋肉痛は、昨日どのような筋肉を刺激したのか、の復習として利用したい。もしかしたら、筋肉痛時に全身マッサージをくまなく受けるとより理解が深まるかもしれない。あえて、痛く感じるように全身くまなく揉みほぐしてもらうのだ。より痛みを感じた部位と昨日のトレーニング内容を照合する。照合することによって知識になる。僕のトレーニングは特別な目的のないトレーニングだが、こうした知識の蓄積が将来何かの目的になるだろう。現在ちょっと嫌なのは、腕にややしこりのような感覚があること。こうしたしこり感なく心地よく痛むそういうハードトレーニング法を体系化したい。初動負荷理論のトレーニングも試してみたい。昨日は夕飯時、父母に金融経済と政治の講義をする。なんだか啓蒙主義者みたいでいやだが、ある程度は身近な人にあれこれ教えた方がいい気がしている。当然、100言って0くらいしか反応がないのだが、ただ無意識化で何か変化はあるだろう、と思う。ちょっと目が痛くなってきた。SNSのコミュニケーションは最悪のコミュニケーションだと思っている。正直、そもそもなんでSNSを利用するの?という疑問を昨日抱けた。例えばの話、ネットで人と関わりたい人全員がホームページを自作して、そこに訪れてくれた人をそれぞれのやり方で歓待したらいいじゃん、と。コミュニケーションをSNSみたいに流動化する必要、どこにもないよね、と。ただ、それだとアクセス数が伸びないだけだ。しかし、本来はアクセス数など伸びなくていいのだ。知っている人が知っている老舗喫茶店のイメージだ。知ってる人が知っている老舗喫茶店は知っている人たちの口コミでささやかに広がりとても濃密なコミュニケーションが生まれる。正直、僕のことをそれなりに知ってくれる人が十人くらいいたら、あとは、割と人目のつかないところで、コツコツ文章を書いていたい。文章以外にもあれこれやるつもりだけれども。幸田露伴の「露団団」を読み始めた。すごく良いので、娯楽で息抜きしたい時おすすめである。「五重塔」や「風流仏」は優れた作品だが、とっかかりにくい。露伴こそ、現代を代表する、僕はこの頃近代も含めて現代に思えてきた、娯楽小説家なので、もっとポップな文庫に再登場してもいいのにな、と思う。小川洋子が嫌いである。嫌いだ。正直に告白すれば、今、さほど頭が回っていない。気というもので説明すれば、なんだかうまく自然の気が僕の中を行ったり来たりしていない。かと言って調子が悪いわけでも不健康なわけでもない。ただ、言葉が次から次に生み出されていく感じはしない。今後noteを使う際、僕は、スキとフォローは一切使用しないことにした。他者に興味があったり他者を支援したくなったり励ましたくなったり、「その考えはちょっとなあ」と思われるアホに出会ったら、一言言葉を残すことにする。人間は奇妙である。赤の他人にスキボタンを連打されても気持ち悪いとは思わないが、赤の他人から、いきなりあれこれ書き込まれると不快感を催すらしい。以前ブログなどで感想を書いたら即日消されていた。意味がよくわからない。人との繋がりをどのように捉えているのだろうか。そもそもネット上で他人から言葉をかけられても、とても安全である。少なくとも夜道背後から「おばんでやす」と声をかけられた場合と比べると、相手が殺人鬼かそれとも能天気なおじさんか否かを勘案する必要ってないわけで、安全なはずだ。皆、ただ、安全不安全の基準ではなく、気分が悪い悪くないの基準で、他者との関わりを断ち切っている。じゃあ、俺自身が他者からコメントを受けてどうリアクションするか、だが、それらコメントにいちいち答えるのは面倒だな、と思う。こうして日々書いている文章の中で何かしらのリアクションを撮れたらいいな、と思う。例えば、コメントに含まれていたキーワードを話題に上すとか。SNSはクソだけれど、確かに、劣化した人間と他人と仲良くなる方法を考える手がかりを与えてくれるツールではある。渡邊晋さんの「ポジショナルフットボール実戦論」を読んでいる。リスクコミュニケーションに通じるとても大切なことが書かれている。割とおすすめ。嫉妬って何か、と少し考えると、あの人は私のはずなのに、あの人は私じゃない、私はあの人じゃない、ってことなのかな、と思う。少し前ゲスの極み乙女が「私以外私じゃないの」というすごくどうでもいい歌を歌っていたが、嫉妬というのは、私以外私じゃない、という観点の先をいっている。「あなたは私のはずなのに、あなたは私じゃない」と「私以外私じゃない」を比べてみれば、いっている内容は同一のようだが、そこで取り上げられている対象の数が、違う。一方は「あなた」と「私」で、他方はただ「私」だ。僕は嫉妬という感情を肯定的に捉えようとこの頃考えている。それは何も、嫉妬心があるおかげで奮起して努力して成長する、と言いたいわけではなく、認識のありかたして優れている(?)気がしているからだ。というか、嫉妬心、というか「あの人は私と同じはずなのに」という部分に詩情を感じるし、また「あの人は私と同じじゃない」という部分にも詩情となにか生き方のようなものを感じる。随分といい加減なことを書いているな。僕は人間が嫌いだ。人間などシネばいいと思っている。具体的には緒方だ。緒方は死ねばいい。緒方洪庵は死ねばいい。あと新だ。新も死ねばいい。新幹線死ねばいい。嫉妬心が怒りに繋がるのは少しだけ不思議だろう。嫉妬心は以上のように捉えたならば、寂しさとか、苦しさとか、孤独感に通じる。「私以外私じゃないの」は、案外寂しさ、苦しさ、孤独感には、通じない。というのも「私たち以外私たちじゃないの」に変換可能だからだ。「私たち以外私たちじゃない」と言われても「へー、そう」となる。あるいは、「あなた以外あなたじゃないの」「あなたたち以外あなたたちじゃないの」と言い換えてみてもとても、だからなんだよ、となる。これ、ただ、人間をグループ分けして断絶しているだけじゃないか。「彼以外彼じゃない」「彼ら以外彼らじゃない」「右翼以外右翼じゃない」「左翼以外左翼じゃない」「小泉純一郎以外小泉純一郎じゃない」などなど。本当にそうか、となる。例えば、今の僕が僕以外でもあり得ただろう。例えば、出産時何かのトラブルで死んでしまった、とか。父と母が結婚しなかった、とか。ただ、まあ、歌の良し悪しはよくわからない。そんな聞き込んではいないから。ただ、興奮状態を引き起こす曲ではあると思う。芸術作品というのは、時に興奮を引き起こすけれど、その一方で、一切の興奮を排除した平熱も提示できる。作家というのは、そのどちらをも半ば意図的に創造できるものだと思う。少なくとも僕はできる。ただ、興奮を引き起こし、その興奮を狂騒へと駆り立てたとして、その後で何にもなければ何にもならない。例えば、津波のイメージだ。津波が街を飲み込む様子だけ示しても、何にもならない。津波が引いていった後の残骸を見せると、何かが残る。先日太宰治の手紙を読んだ。なかなか良かった。戦前戦後の雰囲気を知る手がかりにもなるから、歴史の授業などでも取り上げて欲しい。例えば、現代文と日本史の先生がコラボするのだ。そういう授業を試作してほしい。残りは教育について少し語る。僕は、日本史や世界史といった知識を高校生たちに学ばせなくてもいい、と思っている。まあ、日本史世界史は学んだ方がいいのだが、僕の感覚としては、歴史、というのは、集中的に学びたい、という人を除いて、30歳くらいまでに、なんとなく理解できていればいい、と思うからだ。というより、少なくとも30歳くらいまで、断続的に歴史について学んだ方が、学生時代だけカリキュラムとして歴史を習うより、良いだろう(学びの深まり、学びやすさなどなど)、と思うからだ。イメージとしては、書店で面白げな歴史系の新書を見つけたら入手して読む、ってのを月一くらいやっていたら、それでいいじゃん、と。仮に学生時代偏差値30だったとしても、多分そういう生活していきた30歳の歴史理解って侮れない。もちろん、嫌韓論とか、ひどい本も山のようにあるから注意がいるが。その注意力を高校などで教えればいい。あるいは伝えればいい。また、学びというのは学校の外にまで広がっているものであって、マイペースに学んでいけばいいんだよ、というマインドとか。そのためには、まあ、受験や偏差値教育はすごく邪魔である。代議士とは私たちの代わりに立法府で議論する人である。で、彼らが何をするかという立法である。ここで重要なのは私たちの「代わり」の部分。子供にお使いを頼む場合を考えてみよう。子供に自分の「代わり」に買い物を頼む場合、少なくとも「こういうものを買ってきてほしい、予算はこのくらい、予算が余れば好きなもの一つくらい買ってきていいよ、レシートは捨てないでね」とかとか、そういったアウトラインのようなもの、仮に「子供にお使いを頼まずに、自分で買い物に行ったならこういうの買いたいな」というイメージがあるのが前提だろう。もちろん、子供に頼り切る人もいるとは思う。アルツハイマーになっちゃったとか。ただ、誰かに自分の代わりに働いてもらう、というのは、まず「自分だったらどうするか」のイメージありきだろう。仮にアルツハイマーなどで自分にその判断ができない場合でも、「仮にアルツハイマーではなく自分にその判断力があったらどう判断するか」というイメージはあるはずだ。これを国政選挙に当てはめると、ちょっと怒った言い方になるけれど「自分の頭で立法案も作れないようなアホは投票するなよな、ばか」となる。というか、自分の頭でこういう法律が欲しいなこういう法律はいらないな、ってことをかなりの量思考できないなら、「誰なら、自分の考える立法案を具体的に作ってくれるだろうか、その能力があるだろうか」と思考できず、つまり、誰に投票すればいいか、本来はわからないはずだ。ちょっと説明を端折ったから分かりにくくなったと思うけれど、分かりにくいのは、あなたの知識量不足でもある、と思う。高校などでは、公民の教科では、社会の仕組み細々と教えるよりも、子供たちが子供達の頭で法律案を作る練習をした方がいい。京都議定書とかプラザ合意とかそういうのはさらっと、さらっと短時間で説明すればいい。あるいは動画などにして、好きなやつは好きな時に見てね、と提示しておけばいい。余った授業時間は基本的に、色々な設定のもと(例えば、東京で大震災が起きた場合、とか、人口分布をいじるとか)その場合その場合で必要な法律案を考えて話し合う、そういう訓練をした方がいい。その結果、大学に受からなくても、いい。というより、大学受験は高校卒業後自力で取り組め、くらいのノリでいい。高校では受験のための勉強など教えない、でいい。僕は高校に通っていないから、いわゆるそこらへんの高校がどんな素敵な取り組みやアホな取り組みをしているのかはよくわからない。でも、色々良くしたい。この間福祉センターで地元の高校の総合的学習の展示があった。ちょっとだけ引っかかったことを述べる。もちろんその総合的学習はとても豊かな経験を子供たちに与えたと思う。しかし、思考力は磨かなかったかもしれない。その総合的学習は地元を知ろう、というような内容だった。そのため、高校一年生時は、地元の福祉施設とかNPOを見学インタビューする。うろ覚えなのだが、高校二年時は、色々調べたことを元に、小学生たちに自分たちが伝えたいこと教科書にする。高校三年生で実際にその教科書を使って小学校で授業をする、というもので、こうして思い返すと、めちゃくちゃいい授業だな、と思う。思うのだけれども、地元を知る=福祉施設とかNPOとかと行った組織施設を定点的に観測する、という出発点がちょっと物足りない。株で例えると、これは、各会社の決算書とかチャートとか基本的な個別微細なデータを自分で調べずに、証券会社とアナリストとかの解説をかたっぱしから聴きまくる、みたいな感じなのかな、と思った。例えばの話、ただ街を歩いているだけでも知らないことにたくさん出くわす。家一軒一軒の家族構成とか、職業とか、貯金額とか、趣味とか、全然わからない。ちょっと説明がグダグダしてしまったけれど、そもそも、街とは無数の人々が住んでいるわけなのに、どうして、特定の組織や施設だけをピックアップして取材して、それで済ませてしまえるの?というツッコミ。一軒一軒かたっぱしからピンポンして、インタビューしてそれを町中全てで行なってようやく見えてくるものもあるだろう。あるいは、町にある会社店舗を一軒一軒回って、インタビューできなくても、ただ店内や会社内を見て回って、それだけでも、この街がどのような内需経済で回っているかが自ずと理解できるだろう。福祉法人とかNPOとかを回るのは、相手の福祉法人やNPOがすでに持っている「この町はこういうものだ」というイメージを相手から教わる、悪く言えば押し付けられるだけ、かもしれない。一つ一つでは無意味なデータ、佐藤さんのうちはお父さんお母さん高校生の息子さんの三人暮らしでお父さんは自動車整備工場で働いていて、息子さんは陸上部でお母さんは書道三段などといったデータを無数に集めて、自ずから自力で発見する有機的可変的な世界観(町観?)を少なくともその素地を醸成するのが学びの場だろう。正直僕にはその総合的学習は、ただ、みんなで仲良くするためのコミュニケーションを楽しむための工夫、にしか思えなかった。話のネタ、にやっているだけだろ。って。この世界はもっと良くなるはずなんだ、と思うともどかしい。これも嫉妬である。嫉妬については、狂言・能、演じるなどのテーマも絡めてそのうち論じたい。いや考えたい。論じたい。新しい思考が欲しい。論じるんじゃなくて、講義するんじゃなくて、もっと自由に思考を生み出したい。読んでくれてありがとう。

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