SNS嫌悪。国際女性デー。筋トレ。三日前に書いた文章。

SNSをやるたびに、みんなアホなんだな、と思う。今日は、noteの他の投稿者の文章を軽く目を通したけれど、アホなんだな、と思った。自縄自縛に無自覚に陥っている人もいれば、数少ない価値観でしか物事を見れないよう劣化してしまった人々がいた。少し気分が悪くなり、このままじゃ、せっかく生まれつつある僕の中の小説に差し障りがあるな、と思い、しばらく、noteへの投稿を控え、メールにて友達に文章を送ることにする。そうしたメールの文章をコピペして、土日にでも、まとめて投稿すればいいだろう、と。はっきり言ってアホな彼らのことは無視したいのだが、うまく、伝わり合える(分かり合える、をもじった。分かり合えるはインチキだろうが、伝わり合えるには、希望がある。SNSをやる人々がなぜ機械のようにああもスキやフォローボタンを押せるのかが不思議だ。俺もついつい彼らを真似て、あるいは彼らを励ましたくて、押してしまうけれど、人と人との繋がりはそうじゃないだろう、と思う。興味深い人間や言葉に出会ったら、「面白いですね」と声をかければそれでいいだろう。何、ボタン一つで伝わったつもりになっているんだい。この機械化されたコミュニケーションについては今後論じて生きたいと思う。俺は、割とあえて読みづらい文章をしている。ほら、こうして話題が変わっても改行もしない。けど、その改行を適度に入れた文章が読みやすい、というフォーマットは誰が決めたんだい。俺が決めたわけじゃない。伝わりやすい文章を書くことに腐心して、肝心の伝える内容もないじゃないか。文章はボディランゲージなんだよ。革新的なアイデアもないじゃないか。読者に呼びかけてるんじゃねえ。自分の頭で考えて、その考えを加工せず提示しろよ。ネット上の文章の多くは、「(このように)考えよう」と他者の思考の流れをコントールしようと試みる文章ばかりだ。例えば国際女性デー、それは「女性について性差別はいけませんよね、と言う方向で考えよう」という思考の誘導だ。平和記念日もそうだ(むのたけじさんの批判を思い出せよ)。その劣化版が、ブログやSNSで見受けられる。Hさんには少し悪いけれど、例えば「高校野球の現状おかしくないですか、おかしいと思いませんか」という文章も、もしかしたら、他者の思考を乗っ取ろうという類の文章かもしれない。僕が提示したコミュニケーションモデルは、こうだ。まず自分の頭で考えまくる。考えまくった結果、特定の前提と条件のもとで成り立ちうる理論を構築する。その上で、他者に、「これこれの前提があったとします」「これこれの前提をこれこれの条件に則って処理します」「すると、これこれという結果や傾向性が見えてきますよね」「これが僕の考える理論です」と言うように、前提、その前提をどう処理するかの方針、法則、そして伝えたい思考の大枠を、相手の頭で検証できる形で提示する、と言うものだ。当たり前のディベート思考ではある。俺自身それができているか、というとよくわからないが、すごく抽象度の高い視点に立てば、できている。今もこの文章で実行している。それはつまり、他人に対し、催眠術しよろしく「〇〇について思い浮かべてください」と暗示をかけるやり方ではなく、ただ、俺の頭の中はこうなっている、このような建造物が今俺の頭の中にある、しかし言語ではその一部分しか提示できない、その一部分を提示するから、俺の頭の中を想像したい奴は勝手に想像しろ、ある程度論理的に思考すれば必ずあるまとまった像を見出せるから、という態度だ。なんなんだ、こいつら、奴隷か。と思うほど、クソな文章を今日は見てしまった。ネット上で俺が文章を開示してやっているのは、俺が圧倒的に知識があり賢いからだ。その賢さを無償で活用したい奴は活用しろと提示している。これはどう考えても、他者のための献身で、自己本位の心ではない。が、はたから見ればこれは傲慢な態度なのだそうだ。しかし、傲慢でないとされる奴らが何をしているか、といえば、ただ利己心を満たすべく自動機械となっているにすぎない。そうだろ。少し、熱を帯びてしまった。今日は腕立て伏せを100回スクワットを100回逆立ち腕立て伏せを70回くらいやった。逆立ちも100回やろうとしたが、腕が動かなかった。Hさんは多分運動関係の俺の思考に興味があると思うから書くけれど、俺は現在筋トレ時、骨で立つのではなく、肉で立つのだ、と意識している。肉体をある体勢に支える場合、二つの支え方(変な言葉だが、三種類の支えの力)があるはずだ。一つは骨。一つは肉。一つは血。筋トレ中、骨で体重を支えてしまっては、当たり前だが、筋肉のトレーニングにはならないし、また、骨を傷めてしまう恐れがある。俺の考えでは骨とはおそらく重さを支えるものではないのだ。じゃあ、どうすればいいか、というとすごく感覚的な表現になるが、肉がざわざわする感じに意識を傾けたり、関節をやわらかく動かしたりする。これまた感覚的だが、素早い動作、というのは、ある長さを持った骨どもを振り回している感じがする。逆にゆっくりの動作は、肉や血がぞわぞわと動いていく感じ+骨の角度が徐々に変わっていく感じだ。素早い動作は、骨という細ながい形状のものを振り回すことで得られる遠心力を利用している気がする。逆に肉は、肉はよくわからない。筋トレは面白い、たとえば、スクワットをする際、普通は最適のフォームを崩さず最適の回数機械のように反復するのが良い、とされているが、実は、一回一回微妙にフォームを変えることによって、帰って筋肉に負荷がかかる(気がしている)。なんというか、様々な角度から筋肉を追い詰めていける。また、今日面白かったのは、逆立ち腕立て伏せ時、腕が限界に達し動かなくなった時だ。腕は力を込めようとしても力がこもらない。しかし、一方背中の筋肉が妙に力強く動こうとしていた。なぜそのようなことになるのか、という仮説は半分立てられたが、残り半分はまだだ。俺の文章を(たとえ一割程度でも)理解できるのは、相当に優しくて相当に賢い人間だけだ。俺はこれまでそんな奴どこにもいない、と思ってわざと下劣な言葉を使い全然優しくもなければ賢くもない奴らの心を引っ張ろうとしてきた。しかし、それは本来俺の文章に心惹かれてくれるであろう人々に対して失礼であった。これからは、僕の文章は、イエスキリスト並みに優しく賢い人以外、まともな文章として認識できるはずがない、という前提で、誠心誠意書きたい。読み手を挑発することも、わかりやすい笑いを誘うこと(僕が使うギャグには二種類あって、大衆向けとそうじゃないの、だ)もやめよう。自分の小説が消えてしまう。それは嫌だ。本当は身体論について、まだまだかけるのだが、今日は散歩にこれから出かけたいし、やめる。将棋は随分と強くなって、正直アマ初段二段には負ける気がしない。まあ、結構ポカやって負けてるんだが、まあ、勝ち確定みたいな場面でアホして負けているから、で、その勝勢の場面までは横綱相撲でスイスイ行けるわけだから、まあ、強くなったのだ。最後の最後で負けてしまうのは、俺のお人好しだ。これまで将棋は、本とyoutubeで学んでいたのだが、これからは実戦中心が良いかな、と思っている。実戦>棋譜並べ>youtube=本で、実戦七割。詰将棋は今はまだやりたくないなあ。明日はもっと理論的なことを書く。これじゃ、自分に悔しいからだ。


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