ぶっ殺し流。

文章を書く、研く、ということを意識している。思想とは紡ぐものより、研き続けるものという考えがある。僕は文章を書きながらだと考えを進めやすいので、文章をただ書くことによって思想を研いている。ただ、思想はどれも研かれて行くものなので、完成品じゃない。完成品じゃないものに、思想という名前がついているのは、おもはゆい。文章を書いて考えをめぐらせようとすると、ついついそれまで聞こえていなかった音に耳がいく。先ほどまで将棋を指していた。昨日から将棋が楽しい。今更のように、遊びとしての将棋に目覚めた気がする。僕は将棋を遊びとして捉えていなかったようだ、これまで。インターネット上の対戦なので、だいたいが子供との対局なのだろう、と思う。だいたい僕より相手が強い。子供に教わるのは良いことだな、と思う。これまで子供に嫉妬していた。素直に教われていなかった。自分というものを言葉というものが流れる管のようなものと、ありきたりなイメージだけれど、そう捉えると、気楽になった。気楽になるとはどういうことか、視野が広がること、と捉えてしてしまうとなんだか雑な把握になりそうだ。健康について考えている、というより、日常のありとあらゆる行為を健康のため、と捉える生き方を模索している。歩くのは、健康のため、読書するのは健康のため、将棋をするのは健康のため、小説を書くのは、流石にこれは健康より芸術のためと断言したいが、ある面では健康のためだろう。そして、歩く際に、対象となる健康と、読書する際に対象となる健康とは、異なる種類の健康である。歩く際は、例えば、血液の循環を促進し、体調を整える、健康増進を志向される。読書をする際の健康は、まあ、知的欲求を満たしてストレスを解消したり、思考領域を広げて自由な気持ちになったり、みたいな健康が志向されるだ。これらは適当な例だが、ここで言いたいのは、「すべての行為において何らかの健康の増進を志向する」なおかつ「それぞれの行為において志向される健康はそれぞれ異なる観点によって捉えられた健康像である」という発想を提示しようとしている。数学を勉強する際に増進される健康、将棋を楽しむことで満たされる健康、いや、ここまでくるとちょっと健康を拡大解釈しすぎている気がする。充実感とか別の言葉が似合いかもしれない。が、別の言葉を当ててしまうと今度は健康という概念が把握できなくなる。人間は様々な活動を好み、その様々な活動の中で普遍的に志向されるものの一つ、それが健康である、と捉えた方が、健康という概念に納得がいく。この既に知っている言葉をあれこれと構造的に捉え直すことでその言葉に対し納得する、という志向は謎である。言語化する以前から何かを知っている、ということであるから。他にも何か書きたかったはずなのだが、忘れてしまった。小説がうまく書けないなら、随筆でも適当にだらだらと書いて、それをどこかに送ってみようか。本当の別幕無しだらだらと書いてしまうだろうな。ありとあらゆることに一度ずつチャレンジしてみたい、という気持ちがあるので、随筆をやってみよう、と思ったら、トタン随筆をとりあえず一度だけやってみたくなる。随筆を公募している賞などあっただろうか。できれば、だらだらと書きたい。長々と書きたい。原稿用紙換算で五枚とかの応募ならありそうだが、そんなちゃっちなものでは嫌である。最低でも五十枚はいる。手元にちょうど、市民を対象にした文芸作品応募のチラシがあった。エッセイの応募もある。当初は小説を送るつもりだったが、エッセイに鞍替えしてもいい。だが、緊張するな。締め切りまであと三週間ほどか。小説とエッセイどちらも送りたいものだ。まあ、セコセコと書こう。100枚くらいを目標に書いて、書いたものを適当に張り合わせればいいだろう。だが、困ることは一つあって、僕は現在この文章をメールと同時に新設したブログにもあげているのだが、文芸賞に投稿するとなると、ブログでの投稿を差し止めなくては生けなくなる。せっかくいいことを書いているのだから、誰もが目にできる場に投じたいのだが、まあ、いいや。いや、今回書いた健康論は広く周知させたい気もするな。まあ、とはいえ、応募までそんな時間がないし、ブログ用と投稿用原稿それぞれを用意するのも面倒だ。なにか、感情について、あれこれ考えていた気がしたのだけれど、忘れてしまった。忘れることと健康。先ほどまであれこれ思考することに熱中していた。で、その思考する過程の中で志向されていた健康と思考が生み出したアイデア、形式とは結びついているのだろう。逆に、現在僕は文章を書いている。文章を書くことで志向される健康と、思考することによって志向される健康は異なるため、忘れる、とか、気分じゃなくなる、という事態が発生するのだろう。ともかく、新しい目標ができたのは良いことだ。


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