例えば、古い、エヴァ特集番組を見よう。(ぶっ殺し通信)


僕はお為ごかしなそんなんなくてもいいだろ、ってコミュニケーションが好きじゃない。

文章とはぶつ切りなんだ。それが文体ということだろう。

さておき、僕が今回言いたいことは「(僕を含め若い世代は)数十年前のTVやラジオ番組を見てみるといいよ」ということ。

僕たちは、テレビやネットなど当たり前のように享受している。けれど、その享受は今この時の享受。いくら今この時テレビやネットなどをトコトン楽しんでいたとしても、僕らが知っているテレビ、ネットは「今この時のテレビやネット」でしかない。遥か昔のテレビ、ネットがどうであったか、知識ゼロの僕らには認知しようがない。しかし、知識(例えば数十年前のtレビ番組を見るなど)を得れば、その想像が可能になる。想像の幅、領域が格段に広がる。

ただ、今この時に執着して、夢を語る人間は多い。夢は見なくちゃいけない。だって、生きているんだから。でも、「今この時」しかしらないまま「今この時」に執着した夢を見るってどういうことか、というと、「今のこ現状に最適応した夢」ばかりを見てしまう傾向に無自覚に陥ってしまっている、ということだ。僕たちは時の流れの中に生きている。今この時にだけ最適応して、他者に何かを与えられるだろうか。

僕たちは、ある対象xに対して、xはAだ、という単一の決めつけのまま生きている。ある対象Xに対してXはAだ、と思うこと(XとAの内容はなんでもいい。ポジティブなものでもネガティブなものでも価値中立なものでも。)は、それがどのような組み合わせであろうと、レッテル貼りです。例えば、Aさんは、韓国人で、韓国人はアホだ、みたいな。

けど、例えば、量子力学の考えを応用すれば、XはAでありまた、Bである。かつ、AとBは両立不可能な性質である。と捉えることもできる。あるいは、ネルソン・グッドマンのグルーのように、Xはある時はAであるが、やがてBになる性質のものだ、と捉えてもいい。もっと複雑な、捉え方もできるだろう。例えば、犯罪者はひどいやつだ、けど、そんな長期の懲役を課したり死刑にするのはかわいそうだ、とか。

こういう風に、XはAでもあるけれどもBであり、CなDだ。みたいな、複雑な構造が、なぜ生まれるか、というと、そこに同情とか主格の動転といった人間の心の働きが存在するからです。

先の例では、「犯罪者はひどいやつだ(とみんなが思い、また自分もそう思うけれど)、けど、(もし自分や自分の身近な人がそんな目にあったらと考えると)長懲役刑や死刑はかわいそうだ(と自分は感じる)。」といったように、Xに対する距離感や何がXを見つめているか、という視点がぶれぶれにぶれている。

視点はぶれたほうが、多様な価値に気づけいい。だから、人間として軸がぶれているのは、いい。逆に、たくさんの軸を持って生きている、ってことだろう。

僕たちは、他者に対して、あなたはAだと決めつけてコミュニケーションをとりがちだ。そして、それゆえに他者を評価してしまう。あなたはAだが、ある条件を満たせばSSになれる、という評価だ。

だが、このある条件になればSSになれる、という評価は、あなたはAだ、というX=Aという単一の決めつけが前提になければ成立し得ない考え方だ。

逆に言えば、X=Aという考え方から脱せられないと、ある条件Qを満たせばPになれる、という条件評価から抜け出せない。

僕たちがある条件Qを満たした結果Pになれたとしても、それでは、XはAであるという固定的な認識を再強化してしまい、認識の幅は広がらない。

まあ、端的にいうと、それじゃ、差別は無くならない。

以上の考えは、かなり抽象的な説明ではあるけれど、さまざまな社会的問題を解くためのよすがになる。例えば、ヘイトスピートとかストーカー(被害者も加害者も含め)とか、前科者への差別とか、いろいろね。

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