眠たさ。料理について。

ここ三日ほど、眠たい。比較的よく眠っている。ここ一週間ほどはyoutubeや本などを中心に大量の情報を吸収していたのだが、一週間前に吸収したいと思っていた情報をあらかた摂取したため、軽く脳が飽和しているのかもしれない。この頃は次に何を学べばいいか、が概ねわかっていて、思想面では、情報の摂取は一旦抑え、散歩などで自由にあれこれ考えたいな、という思いがあるし、将棋は、学んだことを経験に落とし込むため、10秒将棋を100局くらい指そうかな、と学習計画を立てている。トレーニングに関してはまだ基礎的なことができていないので、これまでを続行。ともかく知識の吸収は一旦ストップしていいかな、というのが現状。ともあれ、あんまりアイデアは湧いてこない。小説の情景、描景は浮かぶが、それらは浮かんだまま自由にさせておくのがよく、わざわざここに書くことでもない。書くことがない。現在読んでいる本だと、小幡績さんの「ハイブリッド・バブル」が面白い。また、スタニスワフ・レムの「完全なる真空」よく、小説の書き方教えますという本があるが、レムの「完全なる真空」「虚数」を読めば良いのではないか、と思う。その他将棋本、ヨーガ本、数学本を読む。今日は病院に行く日だ。あと、タイトルは忘れたけどなんとかというシンポジウムをオンライン上で視聴する。最新の研究内容が聞けるので、ちょっとわくわくしている。こうして文章に詰まる、ということは、昨日の時点で俺はあまりものを考える余裕がなかった、ということだろうか。本は読んでいたし、youtubeは見ていたし、情報量は十分だった、と思うが、それら情報を俺の中でうまくつなぎ合わせられていないのだろうか。確かにこの頃、ノートを取っていない。手書きノートは不思議なもので、その時興味のある単語を二、三書き込むと自然アイデアや何かしらの見取り図が浮かんでくる。ほとほとぼんやりしている。ただこのぼんやりは気持ちの良いぼんやりなので、意味のあるぼんやりなのだろう。たまにこういう時がある。こういう時に将棋を指すと、大概負ける。頭の調子は悪くはない、のだが、なんというか、実務には向かない。例えば、気持ちい、という感覚は鋭敏だ、今。多分だけれど、今この状態でスカイダイビングとか、ボートで川下りとかしたら、かなり楽しいのではないか。まあ、散歩日和の気分なのだろう。風の流れとか日の光とかに気持ち良さを感じることには特化している状態だ。文章を書いたりあれこれ考えたりするにはちょっと微妙かもしれない。これはこれで思考は働いているはずだけれども、いつものように複雑な文章にはならない。ぶつんぶつんと切れる。緊張感がない、という感覚とも似ている。そういえば昨日考えたことが一つあった。それは食材について。俺は自分で料理をする際今日はこの野菜を食べたいなとかいつもは食べている野菜だけれど今日は嫌だなとなぜか感じてしまう。おそらく、無意識のうちに自分に必要な栄養を求めているのだと思うけれど、この感覚をより鋭敏にするように工夫できるのではないか、と昨日考えた。具体的には、1)使用する食材のレパートリーを増やす、2)各食材の栄養価を知っておく。というもの。食材を絵の具、料理を絵を描くことに例えると、絵の具が豊富な方がより自由に画面を構成できるのは道理。あと、食材の栄養価を知っておけば、意識化されていないこれを食べたいあれを食べたいという衝動を思考の対象にできる。例えば人参を食べたくなった場合、人参に含まれる栄養価を思い出し、今俺は〇〇という栄養価を欲しているのかもしれない、と考えることができる。また、さらに、こう自問することができる。人参同様〇〇を豊富に含む野菜××と人参よりどちらが食べたいか。また、こんな思考もできる。あらかじめ一週間で必要な栄養価を概算しておきそれに合う食材を使うメニューを一週間分用意しておく。で、実際にそのメニュー通りに調理し食べて行くのだが、途中どのくらい、メニューを逸脱し、メニュー外の食材を食べたくなるか、を観察する。こうすることで何がわかるようになるのか、はよくわからないが、予測と実態のギャップに思考が向けられるかもしれない。料理人とかはこうした思考を何十年と積み重ねているんだろうな、と思うと、びっくりする。今、自分が何を食べたく何を食べたくないか、という思考は、何が自分の好みで何を美味しく感じるか、より、思考のカオスさは増すと思う。逆に言えば、料理人にそのような思考を可能にする職場を提供できたら強い。誰が何を食べたく何を食べたくないか。

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