ぶっ殺し。芥川賞。ぶっ殺し。

小説を書こうと思って目覚めた。けれど、相変わらず白紙を見つめている。目がチカチカする。けれど、今日は幾分気楽である。小説が、取り立ててまとまらないので、小説から一時離脱してこの文を書いている。書くことは特にないけれど、書くことがあるというのはありがたい。ぼんやりとしたイメージや温かみのようなものはあるのだが、それをいちいち文章(小説)の形にしたいのか、といえば、微妙なところ。試しに保元物語を開いてみるとその冒頭は「さいつころ、帝王おはしましき。」「さいつころ」の意味がよくわからないが、多分「その頃、帝王がいた。帝王がいらっしゃった」くらいの意味だろう。凄まじく凡庸な始まり方である。こんなんでええんか、と拍子抜けしてしまう。こんな「で・で・でん」みたいな始まり方の物語が何百年も保存されててええのか、と思ってしまう。ただ、悪い始まり方ではないな、とは思う。どちらかといえばそれに続く「御名をば鳥羽の禅定法皇とぞ申す。天照大神四十六世の御末、神武天皇より七十四代の帝なり。」以下の帝王に対する注釈が、煩わしい。でも、悪くないな、と思う。何がいい文章なのかはよくわからない。この文章を、小説らしき文章を一行書いてはこちらを二、三行、という風に書いている。いうまでもなく、そんな行ったり来たりしていて、小説が書き上がるわけがないが、今、僕は取り立てて小説を書き上げる気分ではないのだろう。たまたま思い浮かんだイメージの写生をしているに過ぎない、のか。好き、という感情についてはあれこれ考えている。小説の中に何らかの人物なりものなりを実在させるためには、好き、という感情がどこかになければならない、気がする。小説の中である女の子とある男の子が出会いうるとしたら、少なくとも一方が一方のことを潜在的にでも好きでなくちゃ出会えない。ただ、この好きというのはそんな熱烈な感情ではないはず。そういえば前回の小説を書いていた頃、一切「。」のない、句読点が「、」だけ、つまり、一編の小説丸ごとが一文を書きたい、と思え、書けそうだ、とも感じていた。が、今こうして、新しい文章を書こうとすると、ついつい、「。」を挟んでしまう。「、」も「。」も必然的に存在する論理的構造故に要請される代物ではなく、ただのリズムだ、と考えれば「、」だけの文章「。」だけの文章もありうるわけだ。あの時、書きたい書きたい、次回作か次次回作にそれを試みようと思っていたことが、今、面白みを持って実行できない。不思議である。そういえば、小説の冒頭は、短文であってはならない、みたいな思い込みがある。持って回ったら、長々とした文章で小説は始まるべきだ、みたいな。今これを書きながら、昔、「小説の冒頭はかくあるべきだ論」みたいなのを書いた記憶が蘇る。そこでも、長々とした冒頭で、世界を一望できなければ云々と考えていた気がする。しかし、その思いも、ある発端のある思い込みに過ぎない。先日雑誌に読後感想文を送ったら懸賞品が送られてきた。そんなに売れている雑誌ではない、というのもあったけれど、この感想文を送れば、何か返礼があるだろうな、という長々とした感想文を送った。ようやくすれば、それはサッカーの雑誌だったのだが、「サッカーには一切興味がないが、この雑誌は興味深く読めた、今後もサッカーには特に興味はない」というものだったと思う。なんで運動するのにわざわざルールが必要なのかは不可思議である。また、特定のルールだけ特別優遇するというのも。でも、あるルールに慣れ親しむのは技術的にも精神身体的にも適応できて楽しい、というのはあるなあ、と思う。小説にルールは持ち込みたくない。小説にルールはあっていいけれど、あくまで、一つの例として取り扱いたい。ルールを変えてもいくらでも楽しくなれたら嬉しい。でも、ある大きなルールのもと大きな小説も書きたい。ころころと小さな小回りで、小さな作品ばかり書きたくはない。ある小説賞を想定して小説を書こうとしているのだが、そうすると、どう小説を書き始めても、どうにも不満が出てくる。多分だけれども、その小説賞に同時に投稿される僕以外の作者の諸々の作品群が僕の脳裏に想起され、もし、僕以外の作者がこの冒頭の小説を書き綴ったら、随分とつまらない作品になるだろうな、と考えているためだと思う。凡庸にはなりたくなく、また、僕は他の作者を凡庸だろうとみなしている。また、小説賞を念願に置くと多少の緊張もするのだろう。小説はさまざまな読者の様々な解釈を容認する営みだけれど、読者が僕の小説を凡庸に「ああ、あれね、ああいう感じね」とすでにあるイメージのもと解釈することが許せない。そういう可能性をいちいち潰したくなる。感情とリズムについてあれこれ考える。感情を自分の所有物だと思いたくはない。感情は感情として自分を離れて存在しており、また、だからと言って、自分とは離れた存在である感情が、無価値ってわけじゃない。逆に自分と同一視してしまった感情の方がつまらないだろう。以上は感情についての論だが、これがリズムについての論とも重なり合えばいいのにな、と思う。リズムというのはよくわからない。形式の法則という数学?書がそれなりに面白い。虚数の考えをさまざまな論理空間に応用しうるという発想なのだろうけれど、この発想を容認すれば、小説も変わるだろう。例えば、親密さってものを表現する方法も変わる。一見無関連のカテゴリーを関連づけたものとして定義できる。矛盾を受け入れて、矛盾を受け入れたまま、それゆえにスマートな表現や流れを示せる。いいアイデアが浮かんだが、説明的になりたくない。難しい。僕はだいたい三時に起きて、朝のシャワーなどを済ませたのち五時までパソコンの前に座るようにしているけれど、ただ随分と前に流し読みした記事では、一時間以上連続で座り続けるデスクワークは短命につながるそうだ、後三十分ほどで五時になる。俺、や、僕、という男物の一人称を小説中で使いたくない、という思いがある。別にトランスジェンダーではないのだが、僕は、とか俺は、という一人称で小説を書くことが不潔に思えてしまう。不潔というより、作り物めいた偽物な感じがしてしまう。小説とはあくまで、幻想の産物にすぎない、という思いがあるのだろう。じゃあ、誰の幻想かというと作中人物の幻想だろう。僕は、とか、俺は、をやってしまうと、幻想が幻想でないように感じられる。幻想を描くことはリアリズムの一種である。「作中人物がこれこれの幻想を抱いているのは現実である」という種類のリアリズム。「これは、私の描いた幻想だ、という実感」。視点も含めて、幻想だろう。地球という惑星上で生活し、地球が自転しているからこそ、天動説という幻想が生まれうる(仮に僕たちが宇宙空間で生活できるキングギドラみたいな生命体で現に、宇宙遊泳しながら暮らしていたとしたら、天動説などそもそも想像することさえなかったろう)。小説における、視点に配慮した描写は、そのようなある視点ゆえに成立しうる幻想を保証する。けど、そんなこと考えていると書きにくいな、と思う。職業やステータスというものは書きにくい。設定など。短い文書ならかける。一文とか五文字とか。でも、それを小説まで伸ばすのは難しい。伸ばす、というより繋げるか。それとも。てんでバラバラにつながりそうにない文章を書くことはできる、それは楽しいことでもある。けど、これ繋がらないなあ、と思うし、互いにつながり合うほど大量の文章を生成したとして、その方法論には飽きている。何か核のようなものが欲しい。

ともかく、早くたくさんいい小説を書いて芥川賞が欲しい。

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