「学校でちゃんと☓☓を学んでいれば~」のデタラメ

そもそも「学校でちゃんと☓☓を学んでいれば~」みたいな言い草は、一見、合理的な、場合によっては、弱者に配慮した発言であるかのように見えます。曰く「学校でバリアフリーやノーマライゼーション」、或いは「正しい歴史認識」など。

こういった言辞は、いかに善意にまみれていようとも、学校というものを過大評価しすぎている、その時点で有害な発言だということができます。事実、高校生、Fラン大学生になっても英和辞典が引けない、九九ができない、天下の東大に入っても、アウシュヴィッツを知らない(これについては、かなり例外にも見えますが…)、そういう学生はいるのです。こういった事態については、「学校でちゃんと☓☓を学」ばせていない証拠だということもできるのかもしれませんが、これにかんしては、生徒の素養、教師の力量といったミクロな部分も当然あるわけですが、授業やクラス運営だけをこなせばいいと考えられている教師の負担が大きいとか、特に公立の場合、偏差値70と30が同じ授業を受けている時点で「学校でちゃんと☓☓を学んでいれば~」など、教育現場を無視したカラ文句にしか見えません。こういうことを平然と言える以上、かかる発言主であれば、多少の独学くらいはできるでしょう。少しは教職課程レベルでもいいので、教育学を学んでみてはいかがでしょうか。ついでに、底辺と秀才が肩を並べるということがなにを意味するかくらいは想像してほしいものです。

さて、これくらい言えばいいやという気もしますが「学校でちゃんと☓☓を学んでいれば~」というのは、現実味がないとまでは言いませんが、お気軽に言ってくれるねえ…という感想が出てくるばかりです。英語でもなんでもそうですが、まずは、特に障害児の受け入れの際はインフラの拡充。そして教材の拡充、そして現場の教師による授業の準備。そして学習指導要領の整備など。こういったものを個人の善意や努力でなんとかさせようという言辞は、現場の状況を無視している以上は、全部インチキなのです。

以上、学校教育を念頭に置いて書きましたが、言い方を換えて「正しい教えを学んでいれば~」であればどうでしょうか。仮に創価学会(あくまでも便宜的に名前を出しただけです。それ以上の意味はありません)の仏法が正しいと仮定して、それを折伏ロンパーしたとして、ホイホイ従う人間はどの程度いるのでしょうか?

ましてや「学校でちゃんと☓☓を学んでいればネトウヨにはならない」みたいなヨタは、そもそも左翼やリベラルをまるで信用していないというあたりしか共通点を持っていないネトウヨさん相手であれば、通用するようには到底見えません。かつてのヤソが「(正しい教えを知らない)異教徒」相手にどれだけ尊大に振る舞ったかを、想像してしまうのです。

以上。

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