本邦における日本人へのヘイト、差別の存在を否定するのは重大な誤りである

日本人が多数派、或いは主流ではない社会においては自明のことであるゆえ、以下、そうではない日本でのそれのことを指す。

言うまでもなく、日本は古来から民族的には固定された社会であったといえる。古代における渡来人の出現、豊臣秀吉による朝鮮人陶工や儒学者などの連行はごく少数による民族移動であったといえよう。彼らは新たなるk早期級を形成しはしなかった。

日本における下層階級としての外国人の流入は、明治以降のものであると言えよう。横浜や神戸、長崎における中国人は、階級としてはブルジョアであり、下層階級を形成しはしなかった。狭い意味での日本人にとっての異邦人は、明治以降に流入した、沖縄人、奄美人、そして朝鮮人らが主流であった。明治以降における朝鮮人・中国人への蔑視は、日清・日露戦争以降に生じた東アジア人蔑視の潮流によるものであると言うことができるであろう。

朝鮮貴族の末裔はともかく、李氏朝鮮の没落、朝鮮半島における資本主義、具体的には日本帝国主義の発達によって、流民・移民のなれの果てとして、在日朝鮮人が発生し、移住先の日本において、一種の共同体を構築する。これが朝鮮部落、コリアタウンの源流である。彼らの一部は財を成すことに成功するも、その大多数は日本資本主義の繁栄の恩恵にあづかることはできなかった。そのうえ、朝鮮貴族の末裔や軍人といった例外はともかく、日本帝国主義が「八紘一宇」「内鮮一体」を唱えつつも、日本人の少なくない部分は、朝鮮人を日本人の一員とは認めたりはしなかったし、今後もしないであろう。

以上が、本邦における朝鮮人差別にかんする分析である。同時に、本邦における反差別運動は、こういった潮流に抗うものであると言える。かつ、日本における反差別運動は、部落解放運動が主流として機能しているという状態にある。

ここで、こうした日本人が中心を占める社会において、「日本人への差別」など存在しないと申すのがいるらしいが、これについては明白に「否」である。日本におけるどのような「場」でも、常に日本人が支配的な「場」であることは重大な誤りである。

まず、代表的なものの一つが、在日米軍基地である。これについてはおそらく「日本人差別」そのものを否定する人間ですら否定するであろうことが考えられるので、詳しくは述べない。似たような事例を挙げるとすれば、外国人オーナーらがかなり強い外資系団体あたりが該当するであろう。

で、ごくミクロな「場」限定のことではあるが、外国人或いは外国人至上主義者が主流を占める「場」、具体的には反差別運動界隈が、該当するであろうと考えられる。狭隘な日本社会のカリカチュアとして、「外国人」「障害者」「女性」、その他に対して安易に迎合する「場」というのは、確実に存在する。それ自体については、単に被差別当該に迎合し、屈服したと判斷せざるを得ないものもあるだろう。

往年の『朝日新聞』投書をみてみよう。「世界で最も残酷なのは日本人、ドイツ人」「日本人は残酷な民族」みたいな、いわゆる「日本軍の残虐行為」を依拠して、「日本人は残酷な民族なので、それを封じるために戦争を禁止しなければならない」みたいなものが横行した。しかし、「日本軍残酷物語」なるものを持ち出して戦前の日本を腐している団体のひとつに、統一協会が存在することを見落としてはならない。かれらは、連中の「教義」の根本的な部分は、「サタン国家日本は正義の韓国を迫害した」「韓国アベル国家であり、カイン国家日本よりは道徳的にも上位にある」「日本人は世界最高民族(=韓国人)を迫害したので、日本は戦犯民族として韓国人よりも道徳的に下である」…という汚物を日本社会にばらまいた病原菌の媒体にほかならない。これが「日本人ヘイト」でなければなんなのだ?

もはや明らかであろう。統一協会が存在する限り「日本人ヘイト」は厳然として存在する。そして、「本邦における日本人へのヘイト、差別を否定するのは重大な誤りである」と。

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