近現代化推進党としての中国共産党(メモ)

メモです。適宜書き加えます。

まず、中国の政権与党である国民党も共産党も、イデオロギー政党である前に、清朝の基本的な範疇を掌握することを目的とした近代化政党であるという特徴を有している。また、両党とも、孫文が提唱した民主共和制を採択した政党であるため、誰かを皇帝に推戴するような運動体ではない。なおかつ、日本などの外敵を撃退し、外敵に対抗し得る強力な国家を建設し、運営してゆかなければならなかった。

1949年、中華人民共和国の創建によって、この役目はこれまでこの役割を担ってきた国民党に替わり、中国共産党が担うはめになったと言える。中国共産党は当初はソ連の軍事力や技術援助、そして日本帝国主義のインフラなどの接収が大いに役に立った。蒋介石が国共合作という手段を採用したことは、ソ連による軍事支援や技術支援、これまで有していた国民党独自の軍隊を増強する必要があったためであり、特に第二次国共合作においては、日本帝国主義と対峙することが両党最大の目的となり、結果、中国は戦勝国となった。

勝利を手にした革命党は、まずは国家を運営しなければならない。新中国にとって、最重要課題の一つが、民度の向上、そして衛生概念だった。「中国にはハエも蚊もドロボーもいない」というスローガンは、現代の基準で文字通り受け取るのであるなら、それはマヌケに他ならないのではあるが、病原菌を根絶する必要がある中国政府からすれば、それは至上命令であった。実際に、中国人のマナーも向上した。

しかし、大躍進のときは毛沢東自身が大号令を発しつつも、まるでうまくはいかなかった。餓死者が溢れ、毛沢東自身は屈辱的な自己批判をし、国家主席の座には劉少奇が座した。劉少奇は1959年に国家主席となったが、彼の時代における中ソ関係は最悪であった。事実、イデオロギーという面ではスターリンの功績を否定し去ったソ連に対しても、中共はスターリン賛美論文を世に出し続けた。

1966年、中国では文革が発動する。大学は徹底的に蹂躙されたが、そうした文革期においても核実験・ミサイル発射などが可能であったということは、軍部やその種の関係者、および死守すべきと判断された分野の研究者たちは守られた、ということである。ただ、こういった研究が可能であるためには、基礎研究が守られていることが不可欠である。同時に、手厚く保護されてきたであろう研究分野はというと、日本でも開催された「中国の恐竜展」を開催させるに至った、古生物学の研究、および兵馬俑の研究にて役に立った考古学・歴史学の研究あたりが該当すると言えよう。

当時の人民中国の体制が、ブザマであったことは想像に難くない。しかし、対外的には成功した国家であった。少なくとも、そのように演出して見せるには成功した。『人民日報』、『北京週報』、『人民中国』、北京放送などはきわめて優秀なプロパガンダ装置であった。これらのアーカイブは主要図書館には残されている以上、中国全土が狂気に包まれていたと判断することは重大な誤りであろう。

つまりは、中国共産党は知識人を養成し、(全部とは言い難いが)研究者の研究を守り、強大な軍事力を育成し、世界レベルの「独占資本」と言っていいレベルの大企業を育成させるに至った。

中国共産党が近代化推進党なのは、もはや明らかなのである。まぁ、マルクス主義というのは徹底した近代化推進思想なので、アタリマエといえばアタリマエなのではあるが:-p

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?