48_「主なる神がわたしを助けてくださる…主は近くにいて…わたしを助けてくださる。」(2ニーファイ7:7-9)
以前にも書きましたが、幼い時からこの歳になるまでクリスチャンとしての道を歩んできたのですが、振り返ってみますと、常には、主の喜ばれる教会員ではなかったと思います。度々、主を悲しませるようなことをしでかしたわたしです。でも、今もこうしてクリスチャンとしての道を歩み続けられているのは、どんな時でも主の特別な愛を感じられたからだと思います。
ですから、ここでヤコブがイザヤの言葉を引用して民に読み聞かせている気持ちがなんとなくわかるような気がします。
イザヤは、主の気持ちを代弁して、次のような言葉を使っています。「去らせたか」「あなたの母の離縁状はどこにあるか」「売り渡したか」など「〜か」と疑問形で書いていますが、これは「いやそうではない」という反語です。どのような状況にあっても、主は決してわたしたちから顔をそむけられたり、ご自分が交わされた聖約を忘れられたり、わたしたちから離れていかれたりすることなどありません。
主は、聖約の民であるイスラエルに対して、彼らが非常に邪悪になった後でも、憐れみをかけてくだり、悔い改めの道に導こうとしてくださいました。主がこのような状態でも憐れみをかけられるのであるならば、ましてや、主のもとに来て、聖約を守ろうと努力している人々に対して、それ以上の憐れみをかけられないはずがありません。
次のウークとドルフ長老の言葉は大きな力になります。
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