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30_「心に浮かぶつまらない空想に惑わされた…父は我々をエルサレムの地から連れ出し、我々は長年の間荒れ野をさまよってきた…そして…ただ死ななかっただけであらゆる苦しみに遭った…このような苦しみに遭うくらいなら。エルサレムを出る前に死んだほうがましだった…」(1ニーファイ17:20 )

この聖句は、荒れ野での8年間の旅を終えてバウンティフルという地に着いた後、荒れ野での経験に対して述べたレーマンとレムエルの言葉です。レーマン、レムエルとニーファイの「こころ」の感じ方の違いについて考えてみました。
 
アメリカの臨床心理学者であり、論理療法(Rational Therapy)の創始者として知られたアルバート・エリスの「ABC理論」は「こころ」をコントロールするときに大きな助けとなります。エリスは、出来事そのものに悩みの原因があるのではなく、その人個人の受け取り方が悩みを作り出すのだと述べています。 
     
この理論を自分や周囲の人々の経験にあてはめて考えてみましょう。あなたは「誰々が何々をしたのでわたしはこうなった」という類の会話を聞いたことはないでしょうか?

上記の図のように出来事が感情や結果に影響を及ぼすのでしょうか? 多くの人々は出来事によって自分の感情や結果が決まると考えています。しかし、ほんとうは、出来事が感情や結果に影響を及ぼすのではなく、その出来事に対する心の受け止め方が感情や結果に影響を及ぼすのです。

それでは、ここでもう一度、第1ニーファイ17章のニーファイとレーマン、レムエルのそれぞれの反応について思い出してみてください。レーマンやレムエルとニーファイの反応の違いは非常に興味深いものです。1-3節には、ニーファイの、19-22節には、レーマン・レムエルの気持ちが述べられています。同じ旅程を通ったにもかかわらず、レーマン・レムエルは「死んだほうがましだった」といいニーファイは「神を身近に感じた日々であった」と述べています。これはまさに「こころ」でどう感じていたのか、レーマンやレムエルとニーファイの父親に対する受け止め方、荒野の旅が主によってもたらされたものかどうかということに対する受け止め方がこのような違いをもたらしています。
 
十二使徒のマービン・J・アシュトン長老(1971-1994)も次のように述べておられます。

「わたしたちを不幸にする原因は、境遇や問題ではなくそれらに正しく対処できないことにあります。」

また、現在の十二使徒のデビッド・A・ベドナー長老も次のように述べておられます。

「わたしたちが『自分は傷つけられた』と思いこんだり、言ったりするとき、通常それは、侮辱や不当な扱いを受け、冷酷で軽蔑的な態度を執られたことを指します。 確かに、人々と接するときに行き違い、困惑、非道義的で不寛容な出来事が起き、それによってわたしたちは傷つくことがあります。しかし突き詰めていくと、ほかの人があなたやわたしを傷つけることなど不可能なのです。はっきりと言えることは、ほかの人々がわたしたちを傷つけたと思いこむのは根本的に間違っているということです。傷つくことは、自らの選択であり、ほかの人々や何かがわたしたちに負わせた状況ではないのです。」

(「何ものも彼らをつまずかすことはできません」『リアホナ』2006年11月号,89-90,92)

毎日の生活の中で、あなたは、目の前の出来事の対してどのように感じておられるでしょうか?

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