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34_「バビロンから出よ。カルデヤから逃れよ。あなたがたは歌声をもって宣べ、これを伝え、地の果てに至るまで告げ知らせよ。すなわち、『主はその僕ヤコブを贖われた』と言え。」(1ニーファイ20:20)

イザヤは、主の聖約から離れてしまったイスラエルの民に主のもとに戻ってきて、主の用意された祝福にあずかるように勧めています。当時のイスラエルの民はイザヤが書いていますように「強情で、…首が鉄の筋であり、…額が真鍮である」(20:4)ような、主に対してかたくなで不従順な状態でした。その点、ニーファイの家族の一部の人々とはよく似ていました。もしかしたら、わたしたちにも共通するところがあるかもしれません。
 
実は、インスティテュートテキストの1ニーファイ20:1-2「彼らは、自ら聖なる都の者であると言い…」の部分の説明を読んでいて、ドキッとしました。その説明には次のように書かれていました。

「預言者イザヤは、戒めを守っていないにもかかわらず主に従っていると主張するイスラエルの家をたしなめている。彼らは主の聖約の民であり、聖都エルサレムに住んでいるので、神はいつも自分たちを守ってくださると考えていた。どこに住んでいるかでなく、どのように生活するかが重要であることをイザヤは教えた。(18-22節参照)」

(『モルモン書・インスティテュート生徒用テキスト』 p.41)

わたしはこの説明を読むことによって、自分は教会員として、毎日、聖典を学び、祈り、教会の集会に参加し、責任を受け、精一杯がんばっていると思い込んで、イザヤが指摘したように、形だけの教会員として安心し切っていないだろうかと、自分の心の中を振り返ることができました。イザヤが述べているように「どのように生活するか」についてもっともっと深く考え、形だけではなく心から「イエス様の弟子です!」といえるように努力しようと思いました。
 
そのために、イザヤが勧めていますように「バビロンから出…カルデヤから逃れ」て、世俗の価値観に振り回されるのではなく、主に従順となって、いつも悔い改めて主のみもとへ行きたいと思います。
 
ディーター・F・ウークトドルフ長老は次のように語っておられます。

「サタンはわたしたちがもはや赦されないと感じるように望んでい…ます(黙示12:10参照)。わたしたちが罪を犯すと、『帰還不能点』を過ぎてしまい、進路を変えるにはもう遅いと考えさせたいのです。…キリストはわたしたちを救うために来られました。道を間違っても、イエス・キリストの贖いは、罪が『帰還不能点』ではないという確信を与えてくれます。人を救うための神の計画に従うなら、無事に戻ることができるのです。…帰還可能点も希望も常に存在します。」

(ディーター・F・ウークトドルフ「帰還可能点」『リアホナ』2007年5月号,p.99)

主はわたしたち一人一人を愛しておられ、罪を悔い改めて、主のみもとへ戻って来るように、常に招いておられます。また、さらにもっと主のみもとへ来るようになるためには、自らの罪を悔い改めるだけではなく、イエス様のように、人々に奉仕し、手を差し伸べて救いの業に積極的に参加する必要があります。


いつもイエス様のもとにいるように努めたいと思います。そして、もし、イエス様から離れてしまったと感じたら、すぐに、今日をウークトドルフ長老が述べておられる「帰還可能点」にしたいと思います。


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