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【イースターアドベント⑥】金曜日:受難

この日、イエス様は、ゲッセマネの園で捕縛された後、ユダヤ人の裁判とローマ人の裁判を経て、カルバリ(ゴルゴダ)の丘で十字架の刑に処せられました。こうして、イエス様は贖いの業を完成されました。

エズラ・タフト・ベンソン大管長は次のように教えておられます。

「ゲツセマネとカルバリにおいて主は永遠無窮の贖罪を成し遂げられました。それは歴史上最も偉大な愛の行いでした。これによって、イエスはわたしたちの贖い主となり、わたしたちすべてを肉体の死から贖い、福音の律法と儀式に従う人々を霊の死から贖われたのです。」

(The Teachings of Ezra Taft Benson『エズラ・タフト・ベンソンの教え』p.14)

わたしは、この部分を学ぶとき、いつも心に残るのがイエス様の「十字架上の7つの言葉」です。イエス様のさまざまな神聖な特質を垣間見ることができ、その深い愛を感じることができるからです。
 
「父よ。彼らをおゆるし下さい。彼らは、何をしているのか、わからずにいるのです。」(ルカ23:34)
イエス様は、この時、両手両足に釘を打たれて大きな痛みの中におられたにもかかわらず、その口から出て来たのは「父よ」という祈りでした。天父である神様への信頼と自分に対して不利益を被らせた人々を許してくださるようにとのとりなしの祈りでした。

「よく言っておくが。あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう。」(ルカ23:43)
イエス様の両側には強盗も一緒に十字架につけられていました。その1人が、イエス様に対して暴言を吐きました。もう1人がそれをたしなめて言いました。「…このかたは何も悪いことをしたのではない…あなたが御国の権威を持っておいでになる時には、わたしを思い出してください」この言葉から、男がこの時、主に心を向け、主を信じたことが明らかです。イエス様の次の使命の予告とその男への希望の約束です。

「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です。」「ごらんなさい。これはあなたの母です。」(ヨハネ19:26-27)
イエス様は、大きな苦しみの中で、悲しみの中にある自分の母マリヤのことを気遣い心配されました。イエス様は愛弟子のヨハネに大切な家族を託し信頼を示されました。この言葉を読む時、さまざまな状況の中でさまざまな方々と出会いますが、まさに家族のように愛してほしいと、わたしにも同じように接するように勧めておられるのだと感じるのです。

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)
この言葉は、4つの福音書のうち3つに記されており、聖書の筆者たちがこの言葉を重要なものとして扱っていることがわかります。でも、ある人々は、神様への恨言のようなこの言葉を読んで誤解してしまうかもしれません。実際は、この言葉は詩篇22:1の主とその業を褒め称える章の始まりの言葉です。イエス様が、辛い苦しい状況の中でも、それでも、主と主のみ業について大切にされている態度と行動の現われの言葉なのです。常人にはできないことで、感動を覚えます。

「わたしは、かわく。」(ヨハネ19:28)
イエス様が味わわれた「渇き」は、肉体の渇きだけではありませんでした。贖いの計画が成就するための渇きでした。イエス様は、決して渇くことのないお方です。でも、そのお方が「わたしはかわく」と言われ、実際に渇いてくださり、この後、わたしたちが渇くことがないようにしてくださったのです。

「すべてが終わった。」(ヨハネ19:30)
この言葉は「使命をすべて果たした、完了した」という意味であり、わたしたちの救いのために必要なことは全部なし終えられたという勝利の宣言です。

「父よ。わたしの霊をみ手にゆだねます。」(ルカ23:46)
イエス様は、この最後の言葉を語られた後、息を引きとられます。最後の言葉が「父よ」で始まっているのは、まさにイエス様の父なる神様への愛と信頼を感じることができます。どんな時でも神様を信じ、神様に信頼して生きるのは決してやさしいことではありません。でも、イエス様の模範に従ってすべてを神様のみ手にゆだねることができたらと思います。

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