父親からエルサレムに戻って先祖の記録を手に入れて来るように命じられた息子たちは、その記録を持っているラバンに何度か渡してくれるように交渉しますが、相手にされません。それだけではなく、命までとられかけますが、ニーファイが信仰を持って、御霊に導かれてエルサレムの街に入っていくと、ラバンが道に倒れており主によってニーファイの手に渡され、ついに真鍮の版を手に入れることができ、その上、ラバンの召使のゾーラムをともなって荒れ野の父のところへ戻ることができました。
ヘンリー・B・アイリング管長はニーファイたちの経験と私たちの生活の関係について次のように語っておられます。
「御霊」の教義は教会の中で最も大切な教義の中のひとつですが、十分に理解されていない教義のひとつであるかもしれません。御霊とは、広い意味では、「神会(天父・イエスキリスト・聖霊)からの影響力」のことですが、狭い意味では「聖霊からの影響力や直接的な交わり」のことをさしています。聖典の中やわたしたちが「御霊」という語句を使うときに、ある場合は、広い意味での「神の導き」「キリストの光」「良心」「インスピレーション」などの天父やイエスキリストからの影響力のことをさし、ある場合は、直接的な狭い意味での神様やイエス様、神聖な主の業について証する「聖霊」ご自身からの影響力や交わりのことを表しています。これらすべてをまとめて私たちは「御霊」と呼んでいます。
確かに、わたしたち教会員にとって毎日の導き手として「御霊」を受けられるということは大きな特権です。ラッセル・M・ネルソン大管長の次のように述べておられます。
ゴードン・B・ヒンクレー大管長は「御霊」を受けた時の感覚を次のように述べておられます。
また、デビッド・A・ベドナー長老はわたしたちが毎日の生活でどのくらい「御霊」を受けることができるか次のように述べておられます。
*あなたが最近「御霊」を受けたのはいつですか?