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破産した実家にて


 実家が破産した元ホテヘル従業員というどうしようもないハンドルネームは、少し事実と違うところがある。正確に言うと、実家は破産しておらず、破産しかけただけだ。マンション経営に失敗した、というだけの話である。そしてそれも、今となっては笑い話だ。

 父は生真面目な人間であり、その生真面目さが「実家の破産」を寸前まで気づかせなかった。いよいよ母に泣きついたときにはだいぶ火の車で、銀行からも厳しいことを言われた。父はずっと気まずそうにしていた。
 ギャンブルを教えてくれたのは父だ。元ホテが小学二年生のときである。最初は麻雀で、その次はダービースタリオン。それぞれで金銭を賭けるのに時間はかからなかった。煙草も父から受け継いだ趣味である。母は「どうしてそこだけ似たのか」と呆れていた。

 文章を書くことも父から習った。彼は相当な読書家で、それを借りて読んでいるうちに文章が好きになった。
 中学生の頃である。珍しく二人で外食をした。その頃には自分が買った小説を父に貸すようになっていた。ストーリーのあらすじを話しているとき、流れで「お父さんは死ぬのが怖くないのか」と尋ねた。
 彼は自分の考えをあまり語りたがらない。そのときも好きな作家の引用のような、こんな回答だった。
「人は二度死ぬ。肉体が滅んだときと、忘れ去られたときだ」

 肉体が滅ぶのは怖いが、忘れられるのはもっと怖い。自分の遺伝子が潰えてしまうのは怖いが、自分の「ミーム」が消えてしまうのはもっと怖い。
 書いた文章は、自分の分身として残っていく。それは肉体がなくなっても、この世界に漂う。誰かがそれを掬い上げたとき、自分は生き返る。それがとても救いに感じた。
 どんなに死が怖くても、どんなにやり残したことがあっても、何かを書いてさえいれば、死後にそれが自分の魂となるかもしれない。誰かの記憶に植えつけられて、遺伝子のように引き継がれるかもしれない。だから書こう。書いているとき、たしかにその指先に父がいる。自分がいる。これまでの人生が乗ってくる。足跡になる。救いになる。


 先日、父が急死した。

 必然的に、私は筆を執った。




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