「結果」論
予想屋の日次/月次報告を眺めている。ご丁寧に的中させたレースと配当をすべてピックアップして、次の予想を売る宣伝文句にしている予想屋は多い。
1日に予想できるレース数は、たいてい10~20本といったところか。本日的中率60%! なるほど、20本予想して14本的中させたら、なんだか凄いようにも感じる。明日も半分以上は当ててくれるだろう。このように考えてくれる人が多いおかげで、予想屋は潤っている。
的中率50%の「実力」の予想屋がいたとしよう。20レース予想して14レース以上的中させる確率は5.77%だ。滅多にないことだろうか。いや、平均して17日に1回はある。17日に1回で納得できなければ、こう言い換えてもいい。同じような予想屋が100人いたら、17人がこのような結果になる。毎日どこかの誰かが「連チャン」「爆益」していて当たり前なのだ。そんな当たり前のことに、人々は熱狂してしまう。
また、前段で「実力」にカギカッコをつけたのには意味がある。予想の実力とはいったい何なのだろうか。この問いに答えることは困難を極める。
得意な場を謳っている予想屋に登場してもらおう。彼らはその場のモーターに精通していると宣う。前節いい動きをしていたn号機にルーキーが乗った。狙い通り3着に来て逃げ万舟。これは「その場が得意だから獲れた」舟券だと言う。
果たしてそうだろうか。そもそもモーターのおかげで着内に入ったのかが疑わしい。誰がそう断言できるだろう。そのルーキーがそのレース、別の低調機で走って確かめてみようか。無論、そんなことはできない。
つまるところ、その予想屋は着眼点と結果がたまたまリンクしただけなのだ。1レースあたりの的中不的中なんてすべてそうである。たった1レースの結果で測れる着眼点があるなら持ってきてほしい。そのくらい、1レースの結果というのは偶然の賜物なのだ。それをたかだか1日分集めたところで、脆弱な「結果」であることに変わりはない。
その日に的中を重ねたことと、その翌日に的中を重ねることに因果関係はない。何を以て実力と呼ぶのかも不透明だし、仮に実力を定量化できたところでその大小が的中に結び付くのか、その因果関係も曖昧だ。これでは話にならない。
しかし、多くの人の脳内で、その日大勝したという結果は「これからもずっと大勝できること」に変換されてしまう。的中が連続していたら、次も的中すると思い込んでしまう。ギャンブラーの誤謬、あるいは少数の法則と皮肉されるような心理現象だ。少数のサンプルは対象の潜在的な確率を正確に表現しない。それなのに、人は少数の法則に騙されやすい。
17世紀スイスの数学者、ヤコブ・ベルヌーイの言葉である。的中や短期収支などといった「結果」で対象を評価する癖をつけてはならない。
結果にこだわるという言葉が、プロセスに自信がない人間の言い訳に使われてないだろうか。少数の法則を悪用すれば、結果なんていくらでも取り繕えるのだ。その対象から「結果」を剝ぎ取ったとき、それでもリスペクトできるかどうか。分水嶺はそのあたりにある。
こうなると結論はひとつだ。主眼を置くべき対象は「過程」である。どこの小学生が算数の答えだけを学ぶだろうか。どういう道筋でどこに辿り着くか、その流れの中にしか学びはない。彼らが今日何本当てたかどうかなんて、もはや脳のどこにも入れる必要のない情報である。
彼らの数字に乗っかって的中したところで、運が良ければ鼻くそ程度の小銭が得られるだけで、あなたの脳の肥やしには絶対にならない。優れていると思えた師がいたら、彼らの過程を自らの人生の一部にしていこう。目の前だけで終わらない、心躍る人生の一部に。