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収束という宗教


 投資やギャンブルを少し齧った人なら誰でも見たことがあるはずの、収束というフレーズ。おそらくこういう文脈で目にしたのではないでしょうか。

短期的には負けているけど長期的には収束する!
いずれ収束するから今日の負けは気にしない!
なかなか収束しないけど期待値はあるはず!

 こういう話をするときに決まって例に出されて可哀想なサイコロくんを振ります。1が3回連続で出ました。でもたくさん振ればそれぞれの目が均等に出るように(確率上は)なっています。無限に試行すれば1/6ずつ出現する。これが大数の法則ってやつで、最初は偏っていた事象が「収束する」という想定の根拠です。
 サイコロを振って1が3回連続出ました。次に振ると1は出にくいでしょうか。これも収束の一種だと勘違いする人が稀にいますが、それぞれの出目は独立した事象なので、サイコロは記憶していません。偏りが即座になくなるということは保証されず、次も素知らぬ顔で1が出たりします。これに関する勘違いはギャンブラーの誤謬と呼ばれ、ギャンブルの教科書があるならだいたい第1章で解説される内容です。
 じゃあいったいどのくらい試行すれば収束してくれるのか。人の興味は当然そこに向いて、数学がそれを証明しています。確率分母の100倍の試行回数をこなせば、95%の確率で誤差±20%以内の確率になり、確率分母の400倍の試行回数をこなせば、95%の確率で誤差±10%以内の確率になる。これが信頼区間や信頼度ってやつです。サイコロをn回振ったときに1がこのくらい出る確率はどのくらい?みたいなのが求められます。

 サイコロくんが労基に駆け込む前に話を戻しましょう。
 収束という概念の背景には数学が横たわっており、彼の力は非常に強いです。どんなに短期的に損をしていたっていずれは収束するんだよ、だからやり続けるべきなんだ。そんな悪魔の囁きにすら感じます。
 ただ、そこには非常に大きな、そして残酷な落とし穴があります。

 同じ手法で投資やギャンブルを何度も繰り返すことで、途中で起きた偏りは「ならされる」のではなく、単に「確率上目立たなくなる」だけです。それは真実と言っていいと思うのですが、しかし人間は「確率上」なるものを正しく認識できません。
 
要するにこういうことです。階段を上って下りて上って下りてと繰り返して、ちょうど同じ段数分の上下を経験したところで、身体に疲労は残ります。ああ、いまちょうど平坦になったな、と考えることは難しいでしょう。仮に母数を増やしたことで確率上目立たなくなったとしても、心には様々な「過程」が刻まれます。

 確率は記憶を持ちませんし、サイコロは同じように振れますが、人間は記憶を持つし、そのときどきの感覚によって振り方が変わる生き物です。一定の条件で試行ができない上に、その試行の全体像を眺めることができないのだから、数学的な概念である「収束」も体験することはできません。なのに、何故このような概念が拠り所となっているのでしょうか。
 おそらく本人が収束だと感じている(感じたい)ものは、確率上のある一部分として切り取られた、本人の心理的に都合のいい区間なのでしょう。心理的に都合のいいものに縋るという構造は、宗教にとてもよく似ています。
 競艇でその日コテンパンにやられている予想屋が、最終レースで万舟を当てていました。「これが収束だ!」と言ってのけたら笑ってしまうでしょう。でも当の本人は大真面目かもしれません。宗教なのだから。自分のやっていることは数学的に正しくて、だから結果は必ずついてくる。そんな幻想に依存するのもまた一興。

 試行回数をいくら稼いでも、その稼ぎ手である我々が人間である以上、そこに収束はないと心得たいものです。
 曖昧で非典型なものばかりを体験し、その都度心を動かして、分散を楽しむ。再現性のない例外に眠る宝を見つけ出す。そのお宝をどうにかこうにか「次の例外」に活かす。ありもしない収束に向かって思考停止猪突猛進するのではなく、パトスと足りない脳で右往左往する。そういった営みこそが人生の醍醐味だと、私は思うのです。



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