ジムとインスタとライフハック
週に2回ほどジムで軽い筋トレをしている。慢性的な運動不足を解消しようという涙ぐましい努力で、継続できているのは少しだけ誇らしい。
いつものように4階にある更衣室へ向かう。エレベーターでぼんやりと階数表示を眺めていて、ふと考えた。いま、自分はどうしてエレベーターに乗っているのだろうか。
運動をしたくてジムに来たのだ。階段を使えばそれも運動になる。わざわざジムに来たのに「楽をしている」のは矛盾ではないか。どう考えても説明がつかない。もやもやした気持ちでスクワットマシンに座る。
インスタグラムに登録してみた。知り合いの投稿を眺めてみる。きらびやかな写真、ポエティックな文章、誰に向けられたか分からない感情。まるでインスタグラムを埋めるためだけに集められたような断片。
これはジムのエレベーターと似ている。本来、行ったところや買ったものの記録が目的だったはずだ。それが、記録するために行動しているように見える。運動するためのジムであるはずが、ジムに行くことそのものが目的になってしまっている。この逆転に人間の不合理さを感じるのだ。
ライフハック系の薄っぺらい記事を読むと、必ずと言っていいほど「バイアス」「不合理」という言葉が使われている。人間は愚かで、非論理的で、だからそこに付け入るようなマーケティング云々が有効だと書かれる。妙に言い当てられた気がして、なるほどと溜飲を下げるのだが、ちょっと待てよ、どうしてそんなに人間は不合理なのだろうか。
ジムに行くのは辛い。エレベーターがなかったら、そもそもジムに辿り着かないかもしれない。目の前にある居酒屋に飛び込んでしまう愚かさもある。だから人間の脳は、いつしか「ジムに行くこと」そのものを目的にしてしまう。
外に出かけるのは面倒だ。映えが意識された料理にも、ありふれた絶景にも、実はさほど興味がない。家で寝転がりながら観ているショート動画の方が遥かに精神を充足させてくれる。しかし、それではどうにも不健康な気がしてしまう。だからインスタグラムに載せることを目的にして、重い腰を上げる。
愚かで不合理な人間は、それでも生活を彩るために、どうにかそれを「そのまま利用して」活動しているのかもしれない。ライフハック系の題材がことごとく胡散臭く感じるのは、不合理さを強調するばかりで、そういった人間の「自分を騙す賢さ」に目を向けていないからだ。
進化心理学では、人間の心理メカニズムの多くが生物学的適応だと論じられる。その愚かさには意味があり、その不合理さには活用方法もあるのだと、スクワットマシンの上で考えていた。そんな慰めもまた、自分のちっぽけで偉大な認知機能なりの適応なのかもしれない。