逃走者は何を求めるのか~期待値と夢~

2024年は逃走中20周年の節目の年である。
2023年ラストにして2024年最初の逃走中である「生逃走中」をミスター逃走中・田中卓志さんが逃走成功という最高のスタートで切ったメモリアルイヤー。
既に春決戦のお話も出ており、何やら動いている感じも多い。もちろん「あれこれ憶測するより公式から情報がちゃんと出てから楽しむ」のが私なりの「風情ある楽しみ方」なのでそれまではチピチピチャパチャパドゥビドゥビダバダバとデータの整理と自分が苦手とするアクションRPGを進める日々である。

さて、そんな中、昨年秋「ハンターと強欲の王」についてBPOへの意見に「市街地戦は一般の方もいる中で危ないのではないか」という意見から「逃走中とBPO」について調べた際、ある意見に出会った。
その意見を以下に要約する。

とある意見

挑戦者たちの行動に賞金との整合性が無さ過ぎる。自首したほうがどう考えても得なのに「ゲームを面白くするため」「完走するため」だけの動機で人は目の前の50万円を捨てない。仮にフィクションであっても説得力がないと興ざめする。
(中略)
番組自体は面白いので続けて欲しいが、視聴者を騙すような演出は行き過ぎている。途中で捕まってもそれまでの半分の賞金を得られるとか、ミッション貢献分の賞金は脱落しても別途もらえるとか、整合性を確保したうえで面白くすることは出来るはず。改善して欲しい。

まあ、「逃走中はフィクション」だとか「やらせ」だとかについていちいち「ちげーわあほんだら」と言うのもクソ野暮なのだが、自分が気になったのは「人は『ゲームを面白くするために目の前の50万円』を本当に捨てないのか?」ということだった。
人の心を半ば捨てている当職はこの事について混乱し、いろんな人にこれについてのヒアリングをしたり、ここ最近の皆さんの意見を目にした。
その上でこれについての反論的なのを考えてみた。
相変わらずの「クソみたいな意見に真面目に反論する」記事ではあるが生暖かい目で見てもらいたい。

バラエティ特待生になるとぶち当たる壁

正直な事を言うとこの意見については多少理解できる。

というより「ある程度バラエティ番組なりクイズ番組・ゲーム番組なりを知った人間」であればあるほど分かると1回はぶち当たる壁がある。

「日本のバラエティってドロップアウトに厳しいよね」

例えば優勝賞金100万円を手にしたところで「ここでボーナスチャンス!ボーナスステージをクリアすれば賞金は2倍!しかし失敗すれば賞金は全額没収。もちろんやるかどうかはあなたの意思です。」という問いかけがなされるとする。
ここで「やめて100万円持ち帰ります」ってなった場面をあなたは見た事があるだろうか?
そして失敗し賞金が没収される。
その度に「何であそこで止めるって言わないんだよ…」って思ってしまうのはテレビをある程度真剣に見始めた人あるあるだと思う。

日本の「クイズ$ミリオネア」でも賞金750万円でドロップアウトした人よりも1000万円に挑んだ人の方が多い。
「クイズ!あなたは小学5年生よりも賢いの?」でも厚切りジェイソンさんが初めてのドロップアウトで100万円を手にする間に5組完全制覇・300万円獲得が出ている。
とはいえここ最近は「コロナ禍で切実に懐事情が厳しい」という人や「一般参加でロマンを見ている場合じゃない」という人もいてドロップアウトする方も多くなっている。
かの鈴木拓事変から少しずつではあるがテレビ界、そして視聴者の方も無理に攻めずにドロップアウトを選択するケースが増えているのは悪くない事ではある。

逃走中の「価値」とは何か

前述の方が言っていたことは間違ってはいない。

失敗すれば「ハンター2ケタ体(10体とか30体とか)放出」という致命的難易度となる最終ミッションの前段階あたりで自首するのが一番難易度と賞金額のバランスがいい絶好のタイミングである。そこで持ち帰るのが一番リアルにいい所だ。

でもなぜ皆が皆そうしないのか?皆さんからの意見を参考に逃走中にある「賞金」以外の価値を考えた。

「逃走成功」という栄誉

今や「逃走成功」の価値は数十万の賞金以上の「ビッグタイトル」となった。
霜降り明星・せいやさんは「M-1優勝よりも逃走中・逃走成功が欲しい」といい、逃走成功した千鳥・ノブさんも「M-1」「THE MANZAI」というビッグタイトルが取れなかった中で逃走成功を取れたことに感極まっていた。

どれだけ参戦を希望しても用意される参戦枠は年80~100枠程度。そこから逃走成功するには体力はもちろん知力・判断力・運の全てが無ければならない。年4人程度、ここ最近は年1人か2人ぐらいしか手に入らない貴重なタイトル。
芸人だけでなく様々なジャンルから選ばれる分、M-1グランプリ(2023年)の「8540分の1」よりも何倍もの競争率をくぐらなければ掴むことができない。

その夢を目指す人達にとってはあくまで賞金は「ギャラの上乗せ」でしかない。額面以上に価値ある称号を目指すのだから当然自首は考えられない。

「逃走中でしか味わえない貴重な経験」という価値

単なるゲーム番組を超え何かを「体験する」という物もお金には代えがたい価値である。

巨大ロボットに乗ったり、これまで全く接点の無かった人達と力を合わせて成し遂げるという経験はこの番組でしかできない。

特に「自分の好きな人を助ける」というのは賞金以上の最高の経験ではなかろうか。
自分が子どものころに見ていた新庄剛志さんを復活させた伊沢拓司さん、恐怖の中奮闘し好きな兼近大樹さんを復活させた一般参加の山邉くん、「推しを助ける」というファン冥利に尽きる経験をしたトレエン斎藤さんなど、「普段できない事」を出来てしまうのは逃走中の魅力の一つでもある。
斎藤さんの確保コメント。「Kep1erを救って、それで十分です。」という言葉には十分実感がこもっていた。

「逃走中に出る」という魅力

前述の通り逃走中出場枠は年間80~100枠しかない。出られるだけでも十分なステイタスだ。だからこそ「逃走中」を「夢」「憧れの番組」とあげてくださる人も沢山いる。

賞金よりも何よりも「憧れの番組」に出れること自体が嬉しいのだから、そんな「夢の時間」を1秒でも長く楽しみたい。自分の手で終わらせるようなことはしたくないという人もいるだろう。

自分も色んな人に「逃走中出たらどうする?」と聞かれることがある。
自分は「逃げ切れないので歴代最低逃走率で自首する」「そんなプレイングするんだったら他の人に出場権あげたい」と言っているが、それでも、それでも万が一逃走中の舞台に放り込まれるようなことがあったら結局「ミッション1個はクリアしてから自首」ぐらいのムーブになってしまうと思う。「せっかくだから逃走中の醍醐味は多少経験しておきたい」ってなる。

そんな魅力が逃走中というゲームに詰まっている、あるいはそこまで進化したのではと思っている。

人は期待値で動ける生き物ではない

もちろん鈴木拓さんだったり久保田かずのぶさんだったりかまいたち・山内さんだったり「賞金」を優先してクレバーに自首を選んでいく人間が悪いとは思わない。むしろそれこそが「一番人間らしい戦い方」と我々の界隈は賞賛している。

だが、だからといって「プレイヤーが期待値通りに動かないから逃走中はやらせだ」というのはあまりにも「人の夢」を分かっていない。ディベートでは「だったらAIと戯れとけ」という指摘もあった。

自分は自分主催の似非闇カジノ「逃走中予想レース」以外は一切ギャンブルをしないと貫いているが、周りの人間は競馬やボートレースもするし、父は毎年年末ジャンボを買っている。
無論厳密に控除率とか期待値とか考えれば「勝ち続ける」「大金をブチ当てる」というのは厳しいのは分かっている。
だからといって「そんなもん期待値的に絶対儲からないようできてるんだからやめとけ」って言ってしまったら間違いなく絶交されるに決まっている。

期待値で動くのは効率的だ。高効率で利益を得られ、損を最小限で抑えられる。「夢」はえてして非効率的だ。
でも人は「夢」を見られる。「夢」を追いかけられる。その「夢を追う事」を他人がとやかく言うもんではない。

狩野英孝さんが言った通り「逃走中」には「逃走中ドリーム」がある。
その「逃走中ドリーム」に挑む姿を見る事が、もしかしたら20周年目に突入した逃走中の新たな楽しみ方なのかもしれない。

逃走中の楽しみ方はまだまだ深くて底知れない。
人間が持つ「夢」と「欲望」への探求はこれからも続いていく。

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