『あなたの意見には反対だけれど、あなたが意見を表明することの権利は命がけで守る』

※Facebookノートからの移植。投稿日:2015年11月25日

Twitterみてるとネトウヨとブサヨは紙一重、というか同じだなと思うことがよくある。やることとかが、特に。
通底するのは「対話が無い」ということかもしれない。
右とか左とか、革新とか保守とかの政治・思想とは何の関係もない、メンタリティの部分というか。。
飛躍してるかもしれないけど、テロって、多様性を封じたり不寛容による保身をした結果なのでは。


「世界が歪んでいるのは、僕の仕業かもしれない」


*参考資料


『原点』を一緒に創るコーチ 若狭 喜弘
http://s.ameblo.jp/core-infinity/entry-11694978862.html

"あなたが、わたしに対して反対意見を言うことの権利は命がけで守る"

普段は、ネガティブな感情の礫については触れていません。
自分の情けない状況や感情は、「こんな人もいるのであれば、私は全然大丈夫」と感じていただくためにも、 "私(Yoshi:わかさま)" のことですから、私の責任で公開しています。

ですから、今回はチャレンジです。今回は、不信感の塊のような考え方に触れ、それに思わず反応して書いています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ラジオを聴いていて、

「自分らしく」「多様性を認め合う社会」

という発想を吹き飛ばす、今を生きる日本人の底辺に流れる感情があることに改めて気づきました。こんな感情があるのであれば、上記の考え方なんて、『あまちゃんだ』と鼻で笑われて終わりです。


その実例を書かないとわからないですね。
では早速。このようなことがあったのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今日、ラジオを聴いていた時のこと。視聴者からのメールが届いたそうな。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~
なぜ、あなたは公共の電波を使って、パーソナリティといった地位を利用して、偏ったことを述べるのですか?
そして、それに反対の意見を寄せる場合に、住所、氏名などを明記するように強制するのは、どのような意図があるのですか?
それを使って、何をしようというのですか?
どうせ、このような意見は、あなたは読みもしないし、取り上げられることもないのでしょうけれど。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

そのメールには、氏名、住所などが書かれていたそうです。
もちろん、放送では、ラジオネームで紹介されていました。

そのパーソナリティも、

「反対意見を寄せてくださるのは、大変ありがたいことですし、そういう人こそ守らないといけないと考えて、常にそのような対応をしています。
正しい住所、氏名を書いていただいた上で、ラジオネームがあればそれを。 ラジオネームが書かれていないときには、もちろん "京都の匿名さん" としてさせていただいています。
住所、氏名をお書きいただくようお願いしているのは、言いっ放しの意見ではなく、一人の人の責任を持った言葉として伺いたいのです。あなたも私も一人の人として向きあいたいのです」

と話されていました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あなたはどのようにお感じになりますか?

私の結論を先に述べます。
①自分と違う考え方に対して、すべて『偏っている』とラベル付けをする人が、いまだにいるのだな。
②ラジオのパーソナリティといったレベルの人に対しても、そのような不信、憎悪を感じる人がいるのだな。
③それは、「個人の考え方の多様性」を認めていないし、「多様性の中から創造する」という発想はこれっぽっちもない。
④その根本には、「正しいこと/間違ったこと」の対立する2つの考え方しかない。「間違った考えは、正さなければならない」「私は無力である」といった考え方もベースにある。

詳細に述べます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

①自分と違う考え方は、すべて『偏っている』とラベル付けをするのだな。

この人は、まず「報道」と「主張」を区別していない。
メールを出した人と同じ発想をする人は、

「どうせ普段の報道でも、そんな偏った主張をしているのだろう」

という目で見ているのでしょう。そして、こんな考え方です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「正しいこと」というたった一つのことがあり、もちろん、自分(メールを出した人)は正しいことに賛成の立場であると。
自分が正しいと思うのは、それが本当に正しいからで、多くの人も正しいと思っているからだ。

自分の主張と異なる主張は、『誤り』であり、それを主張する人は、『誤った主張を自分の権限を使って、民衆に刷り込もうとする油断ならない人である』。

そして、自分の、自分たちの意見は中道なので、それに反する意見は『偏っている』。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

②ラジオのパーソナリティといったレベルの人に対しても、そのような不信、憎悪を感じる人がいるのだな。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『偏った考え方をする人』は、

反対意見を握りつぶし、
それを言った人を探し出して危害を加え、
自分の意見に賛同するまで押し付けてくる

のである
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

、と思っているとしか考えられません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

③それは、「個人の考え方の多様性」を認めていないし、「多様性の中から創造する」という発想はこれっぽっちもない。

おそらく、「それは理想」と言いながら、そんな社会にしようとはちっとも思っていないのでしょう。
「だって、自分は正しい」のだから、ほかの人の意見に合わせる必要はない、のでしょう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

④その根本には、「正しいこと/間違ったこと」の対立する2つの考え方しかない。「間違った考えは、正さなければならない」「私は無力である」といった考え方もベースにある。

「私は無力だから、何をしてもかまわない。身元を明かさなくても、武器を使っても」
「正しいことは、正しいのだ」
「ほかの事例で、正しいことがいくつもある場合があるかもしれないが、これは、私の考えが正しいのだ」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

でも救いは、

「通じないかもしれないけれど、私の意見を伝えよう」

と思われている、ことです。本当にそれが救いだな。

そして、この意見に対して、真正面から答えられていたパーソナリティにも希望を感じました。

でも、でもと、考えてしまいます。
「相手は、暴力的に言論を伝える」ものだ。
そんな社会だと思っているのは幸せですか?
そんな社会を作りたいのですか?
あなたは、そんな社会を作ってきたのですか?
私の責任じゃないなんて言わせませんよ。
では、あなたはどんな社会を作ってきましたか?

さらに考えます。
どうしたら、もっと信用しあえる社会ができるのでしょう?
どうしたら、反対意見を受け入れられる社会になるのでしょう?

「今の政治家が悪い」

と言ってしまったら、自分の可能性を閉じてしまうので、言いません。

誰のせいでもないんです。
すべて、私たちが作ってきたんだし、
私が作ってきたことなんです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

一つ、可能性があるとしたら、この考え方を、まず自分が信じて実行することです。そして、周りをこの世界に巻き込んでいくことです。


●「 “わたし” または “あなた” または “私とあなた” から、すべてが始まる、と知っている」
●「発言は義務ではなく、チャンスである。質問に答えることも同様である。
ただし、言うかどうかは個人の選択の問題だが、主張しない「個」は、社会において存在しないのと同じことである」
●「ある人の前提は、別の人にとっては別の価値観の押しつけである」
●「対話で表現することは、リスクを負うことである」
●「表現することは、人を傷つけたり、迷惑をかけたりするものである」
●「最初から結論を決めて向かうのではなく、違う価値観の人と語り合う中で相手も自分も新しい発想を出し合って結論を導くことである」
●「自分はそう思わないけれども、もし自分がその立場、そうするとしたら、どういう自分だろうか、を考えることである」
●「あなたの意見には反対だけれども、あなたが意見を表明することの権利は命がけで守る、という立場をとる」

(「対話する」「表現する」のスタート地点 http://views.core-infinity.jp/2013/11/preparedness/ より引用)




行方知れずの言葉 その日記
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1518242/1530626/99246361

「『あなたの意見には反対だけれど、あなたが意見を表明することの権利は命がけで守る』という民主主義のもっとも根本的なところを、政治家や、企業でいうと管理職の人たち、それから学校の先生たちが守れるかどうかなんです」
もう少し「議論」について。きのうのブログ(4月21日)の続き。

なぜ、ここ数回、「議論」について考えているか。改めて確認すると…。

これからは色んな異なる価値観をぶつけ合い、すり合わせ、調整して、共有していくことで、「公共の空間」を作り、「公共性」を育んでいくことが大事。という話の流れの中で、よく政治家は「議論が必要」という言葉を使う。しかし、彼らの「議論」はそれをすることが目的になっている違和感を持ってしまう。それは、なぜなんだろう。

そんな思いで、ここまで何回か「議論」について言葉を転がしてきた。

前回のブログでは、内田樹さんによる、政治家の議論が空洞化するのは、「非対話的なモード」だからという言葉を紹介した。

相手の価値観を認めない、理解しようとしない「非対話的なモード」だから、お互いが納得できる合意形成、折り合いを見つけることができない。

話は変わるが、先週(4月17日)、安倍総理と沖縄の翁長知事が、会談した。新聞には「対話ムードを演出」(朝日新聞4月18日)、「対話姿勢を演出」(沖縄タイムズ4月17日)などの文字が見られた。

そこで、今回は「議論」ではなく「対話」について、少しだけ考えてみたい。

劇作家の平田オリザさんの説明。NHK『東北発 未来塾』(4月13日放送)より。

「対話とは、違う立場の人同士が自分の考えを説明し合い、価値観をすり合わせること」

「分かり合えないということは、価値観が同じにはならないと考える。価値観をひとつにしなくても社会を構成できるようにすることが大事。いろんな人たちがいて、その人たちがお互いの立場を理解する」

やはり「お互いの立場」を理解することが大事となってくる。政治家に足りない部分である。

また平田オリザさんは次のようにも指摘する。著書『ニッポンには対話がない』より。

「ほんとうにだめなのが、中高年の男性たちです。これがいちばん対話下手。いま流行している言葉で言うと『上から目線』で、『そんなことはないだろう』とか、『きみは若いからわからないかもしれないが』って言ってしまう。若い人たちの意見を押さえつけるためだけの発言をしてしまう」 (P58)

「異なる感性とか異なる価値観をすり合わせていくのは大変なことですけれども、それをいとわないという習慣を身につけていかないと、少なくとも異なる文化的背景を持った人とは仕事にならない」 (P165)

僕にとっても耳の痛い言葉だったりもする。また安倍総理や菅官房長官が、沖縄の翁長知事から「上から目線」と批判されたのも思い出す。

元外交官の北川達夫さん。同じく『ニッポンには対話がない』より。

「『相手の気持ちはわからない』という前提に立つエンパシーという発想が、言語、文化、宗教、伝統、性別、世代、立場など、あらゆる「違い」を超えたコミュニケーションにおいては、必要不可欠なものとなる」 (P138)

「相手の見解があって自分の見解がある。それが対立する、対立するとお互いが変わってくる。まさに、その変わってくるところを楽しめるか、そこを重視できるかですよね。回避せずに、対立を恐れないでぶつかって、そのうえでお互いにどう変わるか、そのプロセスを理解することが対話では重要になってきます」 (P167)

「妥協というものを否定的にとらえると、これまた対話はできなくなってしまいます。対話というのは、価値観を意図的に衝突させ、そこによってお互いに変わっていく作業なのですから、ある意味で前向きに妥協点を探す作業ともいえるんですね」 (P168)

結局、折り合いや妥協をするためには、自分が変わることである。その変わるということをいかに肯定的に変わるかが問われる。

さらに内田樹さんの次の言葉を重ねると興味深い。著書『子どもは判ってくれない』より。

「『私の主張は間違っている可能性がある』と思っている人間たちが集まると、その議論はたいへん迅速に進行し、かつ内容は濃密で深厚なるものとなる」 (P129)

最後に、平田オリザさんの次の言葉を。著書『ニッポンには対話がない』より。

「ワンランク上のほんとうの民主主義国家として成立させるための正念場に来ていると思います。それはやはり、『あなたの意見には反対だけれど、あなたが意見を表明することの権利は命がけで守る』という民主主義のもっとも根本的なところを、政治家や、企業でいうと管理職の人たち、それから学校の先生たちが守れるかどうかなんです」 (P53)

議論をすることが目的の「議論」に終始するのではなく、「対話」を続け、お互いが理解し合い、折り合い、すり合う過程で自分が変わっていく。それこそが「公共性」につながっていくことなのだろう。沖縄問題しかり、被災地での復興しかり。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?