俳句を読むことについて

 「俳句って、どんなふうに読みますか?」と質問されることがある。これは私も気になる。みんなどうやって読んでるのかな。

 私は読む方から俳句に入ってきたため、正直俳句ならではの読み方にいまいち自信がない。韻文と散文は違う、一言一句おろそかにするな、俳句には俳句の読み方がある、……etc 前衛派だの伝統派だの、うわ~後で調べとかなくちゃ、と思いながら、でも、私は俳句を好きなようにも読みたいのだ。というか私は俳句を読むために俳句をつくっている。つくるよりも読む方が断然好きだ。本当はずっと俳句に読み耽っていたいくらいなので、この俳句をつくるための読み方や俳句表現史に俳句を位置付ける読み方も面白いとは思いつつも、でも、ず~っとそういう読み方ばかりしているとだんだんうちしおれてきてしまう。

 面白くない。ちっともスリルがない。私、すでにわかっているようなことがらをなぞりたい訳じゃない。もっと驚きたい。もっと俳句そのものを読みたい、そんなふうに思う。俳人の読み方は、ときどき傷んだ野菜を捨てるような粗雑さを感じて、ものたりない。

 ムリヤリわかろうとしなくても俳句は楽しいのになあ。私はむしろその自由さにこころひかれているのに。わかる/わからないの評価軸もそれこそよく「わからない」。別に、わからなくても良いのでは。そもそもこんな短くてわけのわからん詩型で何をどうわかれというのだ。しかも意地でもわからせてたまるかみたいな俳句もごろごろごろごろしてるのに。音楽を聞くとき、絵画を見るとき、ダンスを踊るとき、わかろうとしないし、別にあるがままの俳句を何度も何度も読めば良いと思う。

 俳句には、俳句ならではの正しい読み方があるのだろうか。誰もが同じように読まねばならないのだろうか。そんなことはないし、私はもうちょっと違う読み方をしたいな。その方が好きだから。それに、俳句ってなんか、生きものっぽいところがあるような気がします。っていう話をしたいけど伝わるのか自信がない。

 私は俳句の一瞬で覚えられるところ、あちこち持ち運べるところが好きだ。いやよくわからんのだけど、ほかのひとは1回しか読まないのかな。文法や語法、季語や俳句表現史も面白いと思うけれども、私はむしろ俳句というテキストによって思いがけず浮き彫りになる読者としての私のコンテキストを楽しんでいる。私という人間の揺らぎを楽しんでいて、むしろそういう話をしたいのに。

 このような気持ちから、「なんかこうぐいって押し込まれてばってかたまるような感じで読みます」とうっかり答えてしまい、伝わるのか伝わらないのかみたいなこころもとなさを感じる。というか、私は俳句で感じたモヤモヤをことばにするのに時間がかかることがあって、ある句を数か月間かけて読むこともある。自分が俳句の何に心を動かされているのかが自分でもよくわからないことの方が多い。それを丁寧にことばに落とし込んでいく。私にとって鑑賞というか、俳句を読む行為はそういうものだったので、本当にそうとしか読めないところまで読める句はすくない。

 私はむしろ、俳句ならではの読み方にまだ慣れていないので、なんでつくるのはやりたい放題なのに、読むのはこんなにきゅうくつなのって思うことの方が多いなあ。短いから自由に読める、しかも何度も読める、そのたびに揺すぶられるのが最高にスリリングでわくわくする。そういう面白さをぞんぶんに語り合いたいのに、なかなかうまくいかないな~。