道しるべのための備忘録 2018/5/7

「震災を機に、人々の「情報」に対する見方・考え方は変わったと言われている。しかし元来「情報」は、明治時代の初めに、敵の〝情状の知らせ、ないしは様子″を意味する軍事用語として誕生しており、戦場での生死に関わるもののことを指していた。現代に生きる私たちも、「情報」が自分たちの命に関わるものなのだという本質に、やっと気がついたというべきなのだろう。」『「過情報」の整理学』(上野佳恵/著 中央公論新社 2012 190p)

「どこにでもあるけど、一瞬一瞬であっという間に消え去っていく触感。その触感をプロもアマチュアも自由自在にコーディネートできる。素晴らしい触体験を繰り返す間にいつのまにか、当たり前の日常をワクワク「と感じられる」自分に変わっている。モノに対してもヒトに対しても、そして自分の身体に対しても感性豊かに接することができるようになる。

それこそ、わたしたちが目指している《テクタイル》がもたらす未来です。」
『触感をつくる』岩波科学ライブラリー(仲谷正史 /[ほか]著 岩波書店 2011)

「さて、ここで私は不謹慎にも他人に虚偽記憶を植えつけてしまったことに、罪悪感を持ち続けていたことを告白しなければならない。記憶を操作することを知ったのは、10歳くらいのときだった。手品ショーを見物したことがあり、そのときの手品師の手品だけではなく、催眠術に魅了された。それは驚くべきものだった。ある見物人の女性を「トランス」状態にさせ、手品師の頬にキスしたり、鶏のように鳴いたりといった、あらゆる種類のことをやらせた。私はその能力に大いに興味をそそられた。次の自分の誕生日プレゼントには、もちろん手品の道具一式をお願いした」(『トラウマと記憶』ピーター・A・ラヴィーン/著 花丘ちぐさ/訳 春秋社 2017 188p)

「しかし、結論を急ぐにあたって、まさに白状しなければならないのですが、まさしく証明すると言われていることを、知の、理論的証明や基底的判断の厳密な意味で、嘘の歴史、嘘そのものの歴史としてのそのような歴史の実在と必然を、何も誰も決して証明することはできないのでしょう。嘘の歴史は知の理論的な対象にはなりえません。それはおそらく、知を、ありうべき知のすべてを要求し、しかし、構造上、それとは異質なものにとどまるのです」(『嘘の歴史 序説』(ジャック・デリダ/著 西山雄二/訳 2017)

「証言とは、自分が見たり聞いたりしたことを単に伝えることではありません。証言するとは語ることによって、自らの経験を他者に訴えることであり、自分が真実だと思う事柄を他者にゆだねること、他者に託すことです。したがって証言は他者からの問いかけに対する応答であるだけでなく、証言内容について責任をもち他者に対する責任を担うことにほかなりません」『ハンナ・アーレント講義』(ジュリア・クリステヴァ/著 青木隆嘉/訳 論創社 2015 136p)