兎がまだ生きていること ―小松岬「しふくの時」覚書

小松岬「しふくの時」を読んでフェミニズム的にちょっとモヤモヤしたことと、連作として読んだときに、やはり30首めが大切なのでは?と思ったことを中心に書きたいと思います。
 
● 加害/暴力の主体の脱焦点化

子を産むか金稼ぐかの街にいてわたし砂漠でも水を探すね
いつの日か祝えるだろう生殖がほんとにわたしのものになったと
奪われた星で磨かれきらきらとうつくしいままガラスの天井

一読したとき、「雌伏」に対する「雄飛」が書かれないことへの違和感がありました。これらの歌で言えば、「子を産むか金稼ぐか」の選択を「わたし」を含む街の人々に迫る主体は何者なのか。現在「生殖がほんとにわたしのもの」ではないならば、「わたし」から生殖の権利を簒奪する者は何者なのか。奪い、磨き、ガラスの天井を「うつくしいまま」に維持しようとする主体は何者なのか。加害/暴力の主体としての公権力の存在は名指されない。連作を通し、徹底的に受動態の表現に徹することで、加害/暴力の主体の脱焦点化が行われているように思えます。また、「ガラスの天井」の政治的/社会的文脈が漂白されている点では、脱政治化とも言えるかもしれません。「ガラスの天井」は、それを打ち破るために提唱された概念では?ガラスの天井を「うつくしいまま」で「ランドセルの少女」にパスするわけにはいかないのですが、社会構造への批判的な視点に欠けている点にものたりなさを感じました。
中盤にかけてのエキナカ空間~駅周辺の日常風景を詠んだ短歌に比べ、終盤のフェミニズム的なテーマを扱った短歌は抽象度が高く、何が言いたいのかよくわからない感じがします。ただ、終盤は単作としてよりも、連作全体のパーツ、30首めへの助走、溜めとして生きてくるのではないかと思います。
 
たとえば同時代の書き手でいうと、山木礼子の次のような短歌を連想しました。

子を持ちても歌会へ通ふ日々をもつ男性歌人をふかく憎みつ
「日本死ね」までみなまで言はねば伝はらぬくやしさにこのけふの冬晴れ
雌の方が大きく育つ生き物に生まれたかつた みづに吐く息
 
● 背中を押すやわらかい手は誰のものか?

この道をゆけと背中を押してくる手たちのずいぶんやわらかいこと

この歌の「手」をめぐっては、「抗わないことに対する複雑な自己批評」「その道をゆけと押してくる手は女の手なんだと。複雑でニュアンスに富んでいて面白い」(米川千賀子)、「無論「抗わずにい」るという選択を強いる存在は性別問わず存在するだろうが、「くらがり」で息を潜めて待っているのはやはり、フェミサイドの加害者ではないだろうか」(濱松哲朗)などの評がありました。私は家父長制社会に適応するため「わきまえ」ざるを得なかった上の世代の女性たち、次世代の女性たちにも「この道をゆけ」と背中を押す女性たちの無数の手を連想しました。けっこうキツい歌だと思います。
 
● シスター・フッドの不在

ゆりかごのリズムで揺れて赤子抱く男に狛犬ポジション譲る
人間になって間もない生きものよ見ておくれ世界のいいところ
ランドセルの少女が無事に改札を抜けるまで見てスタバに入る

中盤では、ささやかな抵抗とゆるやかな連帯が描かれます。ただし、対等な関係性かと言われるとちょっといびつな感じがしました。「赤子」「人間になって間もない生きもの」「少女」は、庇護すべき対象/全き無垢な存在であって、対等な存在ではなく、双方向性のコミュニケーションでもありません。
この連作の面白いところは、あくまでも「わたし」が主語であること。「子を産んで毎日泣いてゐる人へ わたしはあなたのすべてを守る」(山木礼子)なんかを念頭に置いていますが、「わたしたち」を主語とする短歌、いわゆるシスター・フッドを分かりやすくテーマにした短歌は意外とない。

他にも、

スカートにポケットがついていることは希望の変奏曲かもしれず

スカートのポケットは絶えざる抵抗と苦闘の痕跡でもあります。しかし、主体は、スカートにポケットをつけるために戦ったであろう無数の「わたし」たちに対する想像力を働かせることはない。
ただ、これは安易に「わたしたち」を自明視することによって、誰かを排除しないようにという慎重な手つきによるもので、誠実さを感じる部分でもありました。
 
● やはり30首めが大切なのでは?と思ったこと

なつかしい兎のような熱を抱き これは怒り あなたにも抱かせる

「これ」は「なつかしい兎のような熱」を指すとともに、この連作の今までの作品ぜんぶを指すと思います。『短歌研究』2022年7月号の抄録には、30首めはありません。「至福」で終わった方が連作の構成がスッキリすると判断したためでしょうか。選考会でも言及がない。
しかし作品全体を見たときには非常に大切で、この一首を読むかどうかで全体の印象がかなり変わってくるように思います。それまでは抑圧された緊張状態が続く。花やピアノの音色にいっとき心を慰められはしても、常に警戒を怠ることはできない。常に耳を澄まし、眠らず、恐怖に駆られている。その身体的な反応に、最後の一首ではじめて「怒り」と名付けられる。
この怒りが抑圧すべきものではなく「なつかしい兎のような熱」という、守るべきもの、優しいものとして「あなた」(≒「わたし」≒「読者」)に手渡されることによって、はじめて他者へと開かれていく。30首めは言及されることは少ないですが、怒りとエンパワメントという点では、いちばんフェミニズム的な一首だと思いました。ただ、1~29首めが今まさに起きている現在進行形の出来事であるのに対し、「なつかしい兎のような熱」は少し距離のある言い方で、過ぎ去ったことのような印象を受けてしまう。まだ「なつかし」むことはできない。でもいつかはきっと、と願わずにはいられない。
私家版歌集『しふくの時』には、短い著者のあとがきがあります。そのあとがきを踏まえて言えば、「しふくの時」、「雌伏」から「至福」へいたる時、これは現在・過去・未来を通じての時間軸を指すものと思いますが、30首めはまさに祈りのような一首と言えるのではないでしょうか。
 
● 引用・参考文献リスト
『しふくの時』(小松岬/著 [小松岬] 2022)
「しふくの時」(小松岬/著 『短歌研究』91巻7号1059号 短歌研究社 2022年7月 p24)
「第65回短歌研究新人賞選考座談会」(前掲『短歌研究』91巻7号1059号 p40-65)
「短歌時評<女性の身体>を引きずって」(鯨井可菜子/著 『短歌研究』91巻9号1061号 短歌研究社 2022年9月 p190-192)
「奪うな」(濱松哲朗/著 砂子屋書房月のコラム「安心自由帳」2022/09/01 URL: https://sunagoya.com/jihyo/
『太陽の横』(山木礼子/著 短歌研究社 2021)
 
※有志による「しふくの時」読書会用のレジュメとして作成したものに若干加筆修正しました。参加者のみなさま、ありがとうございました。
※読書会参加者の感想、レジュメ
●佐々木紺[URL: 小松岬「しふくの時」感想|kon|note]
●穂崎円[URL: https://mondenkidandsprayofthedays.blogspot.com/2022/10/blog-post.html]
●松本てふこ「小松岬『しふくの時』読書会レジュメ……と銘打った感想メモ - てふこよもやま (hatenablog.com)