「これは私の怒りではない」考察(みやさと編)

この度は、多くの方に俳句の季語斡旋調査にご協力いただき、ありがとうございます。twitter 上で行ったアンケート調査とその結果は以下の通りです。

お礼を兼ねて、いくつか追記したいと思います。

1.「これは私の怒りではない」の成り立ち

家の近くにおいしいラーメン屋さんがあって、最近よく通っています。そのラーメン屋さんにはテレビがあります。ラーメンをすすっているときに、流れてくるニュースを見ました。それは赤木雅子氏の意見陳述に関するもので、直面しているであろう理不尽を思い、ものすごく腹が立つと同時に、やがて奇妙な無力感に苛まれるのを感じました。自分の感情がひどく鈍磨しているのに、それに気づくことさえできなくなっていることに、焦燥感がありました。

どこからどこまでが私自身の怒りなのかがあいまいになっていくことがこわくて、とにかくまずは食べるんだ!と思って、ラーメンにライスとぎょうざ(6個入り)と生中を2杯追加注文してがむしゃらに飲み食いしました。そのときにふっと湧いたのが「これは私の怒りではない」というフレーズでした。

「これは私の怒りではない」というフレーズは、誰かのために一時怒ったふりをしてみせて、それで終わったことにするのは嫌だ。私は私自身の怒りを引き受けたい。きちんとそれを切り捨てずに大切にしたい。でも、果たして私にそれができるだろうかという、ほとんど自問自答のつぶやきに近いニュアンスで作ったものです。

2.自句の季語を斡旋した理由 

実際には「ラーメン食ふ」でしたが、これではどうにも俳句にならないので、

〇〇〇食ふこれは私の怒りではない

に当てはまる、夏の食べものの季語を、歳時記を引いて探しました。2音(+格助詞)もしくは3音。ピックアップし、まず候補に挙げたのは、鰻、穴子、蝦蛄、蟹、海老でした。

よく噛まずに飲みこむ、がつがつとむさぼり食うイメージだったので、候補の中から甲殻類を外しました。甲殻類では食べるときに手間がかかりすぎ、またシャープで硬質な怒りになってしまう。もっとぬるぬるとしてつかみどころがない方が、私のイメージする怒りにはしっくりくるので、鰻と穴子を残しました。鰻は土用の丑の日に食べるものでしたが、いまは絶滅のおそれがあることから食べないようにしているため、何か違うと思いました。穴子を採用し、

穴子食ふこれは私の怒りではない

としました。

先行する作品、特に上五の季語の斡旋の仕方についてご指摘を受けましたので、申し添えます。当然ながら、私の俳句は先行する幾多の俳句の影響を受けています。

ただ、「穴子食ふこれは私の怒りではない」という一句は、句の巧拙やオリジナリティとはまた別に、今ここに生きる私自身の内的必然性、切実さによって生まれたものです。上五の季語にせよ、未熟なりに試行錯誤を経てたどり着いたものです。

俳句とは、季語とフレーズといった、単なるパーツの組み合わせではなく、それを書かざるを得なかった何者かによって、はじめて書かれ得るものではないでしょうか。

これは私の俳句です。それだけは自信を持って言うことができます。

3.ほかの季語について 

「羽蟻の夜」はとにかく姿が端正でうまいと思いました。どうしても77でバタバタしてしまうのをすっと抑えています。羽蟻には一個の人間の運命がオーバーラップします。抗えない大きなものに対する、ふつふつとした怒りの感情を持て余している、夏の夜のイメージでした。

「陽炎の」は、当季ではない点がまずtwitter上のアンケート調査では不利に働くのではないかと若干危惧しました。「や」で切らずに「の」でつなげたことで、より陽炎が体感的に感じられる面白さがあると思います。また3句の中ではもっとも美意識を感じました。

4.事前予想と結果 

「陽炎の」は前述の理由により伸びきらず、最初はフックのある「穴子食ふ」が伸びるも、最終的にはオーソドックスにうまい「羽蟻の夜」が逆転して最多票を獲得するとの予想を立てていました。結果は外れてしまいました。いただいたコメントが予想外のものが多く、楽しく拝読しました。すこしでも皆様にお返しできればと思いましたが、今はこれが精一杯です。

5.まとめと謝辞

この度は、多くの方にご参加及びご協力を賜りました。企画を実行するうえで、運営サイドの不手際によりご心配をおかけする場面もあったかと思います。申し訳ありませんでした。

西川火尖さん、星野いのりさん、そして何よりご参加くださった皆様には、改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。