番外 固有名詞と忌日の季語と桃鉄のノスタルジー

 結局俳句のよしあしとうまいへたの区別ってあんまりうまくいかないし、そもそもその区別を切り分けようとすることに近ごろ意味を見いだせなくなってきている。俳句甲子園、各地方の予選大会では、地名などの固有名詞を詠み込む句が散見され、私はおおっと思った。

 というのは、地名を詠んだとき、そのイメージを感じ取れるひとがごく限られてしまうではないか。かなりリスキー。全国でも地名を詠み込む句はあるのかな。地方大会ならではなのかな。これは気になる。なんとなくだけど、普遍性を獲得してない、といわれてしまうこともあるんじゃないのかな?

 実際、句会では10代~90代、下手をすると100才以上の現役俳人が一同に会する訳で、単純なジェネレーションギャップによっても、伝わらないこともあるのでは、と思って若い俳人に訊いてみる。「黄金バット」がわからなかったというお話をしていただく。

 そうか黄金バット……!ググってもわからないよね。時代とともに失われた永遠のヒーロー。漆黒のマントをまとう、黄金の骸骨で、高笑いをする、と説明しようとして、でも、私はなんとなく黄金バットの句が詠まれ、それをわからぬ若い世代に属する俳人が電子辞書で調べるという営みそのものを、良いなあと思ってしまった。

 実際忌日の季語の取り合わせ句とか、これこそ友蔵サラ川ラインになりえてしまう。私は学生時代に近代文学史を専攻しているけれど、それでもなじみのない忌日の季語はある。いきなり桜桃忌と言われて太宰を想起し、その作品世界や作家のイメージがぶわってわくかというと、ひとによるかも。私も『桜桃』は未読なのだ。青空文庫で読めるのに。桜桃を読まずして桜桃忌を詠む。これもまた、見解のわかれるところなのかも。

 ううむ、と思い、せっかくなので固有名詞や忌を詠み込んでみることにした。みしみし句会の字題は、「徹頭徹尾」。すんなり思いつくのは徹夜かなあ。ということで作った句が、

桃鉄の夜を徹したる楸邨忌 

 これをたまたまある俳人に見ていただいたところ、ほめていただいてとても嬉しかった。でも、桃鉄のノスタルジーと楸邨の取り合わせって、わかるひとはすくなさそうだし、これこそよしあし、うまいへたでいえば、へたな句なのではないのでしょうか?と質問すると、普遍的なものだけが価値ではない、と一蹴していただいた。

 私は、技術の巧拙を評してもらうこともとてもありがたくうれしく励みになるが、同じくらい、誰かが桃鉄や楸邨をなつかしく思ってくれるのもうれしかったりする。届く人に届けば良い、そんなふうにして俳句をつくってみたとき、例えば句会では「わからなかった」と言われて点が入らないことも十分ありうるし、それは表現力という技術の巧拙の問題ではないよね。誰かが好きだと言ってくれる、それだけでうれしいし、私の表現力が未熟で、誰の心にも届かなかったとしても、技術であれば努力によって磨くことができる。

 昔は週刊少年ジャンプは190円だったなあ、セブンティーンアイスはもっと大きかったなあ、と、誰かが思ってくれたら、私は十分にうれしい。また、それが「わからない」と言われても、一顧だにされなくても、やはりうれしいし、背筋がのびるような気持ちになる。なぜなら、俳句をつくること、読むこと、投句すること、一連の営みそれ自体が、私にとっては価値があるし、それ以上に敬意を表するに値するものだから。そういう営み、そういう場そのものを、私が大事に思っているからだ。なるべくルールを守りたい。みんなの時間を大事にしたい。そしてそれ以上に、何か大きなものに敬意を払いたい、そういう想いがあるのだと思う。

 忌日の季語と固有名詞もまた、なかなかむつかしいなーと思うのだった。

参考web

「忌」とは何か (島田牙城/著)
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8830.html

桜桃 (太宰治/著)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/308_14910.html