覚書(公共性と私性)2018/5/15

「まずはホルクハイマーらの反ユダヤ主義論から振り返っておこう.彼らの議論というのは要するに,異他なる存在者の排除がいかなる心的機制にもとづいて作働するのかを,フロイトに依拠しつつ説明しようとするものだった.『啓蒙の弁証法』によれば,文明史の行程で人間主体の内なるミメーシス的な衝動は抑圧されざるをえない.そしてこの抑圧された衝動が「不気味なもの」として回帰するとき,主体はそれをみずからの存立を根底から脅かすものとして忌避し排除することになる,というわけである.ただし,このように不気味な存在者を排除したからといって,異質な存在者をいっさい含まない,純粋に同質的な共同性が成立するかといえば,そんなことは実際にはけっしてありえない.先に述べたように,このとき主体にとって異質に映る他者とはじつのところ自分自身の歪んだ鏡像にほかならないのであって,主体はいわば幻想の敵をみずから勝手につくりだしてはそれを追い払っているにすぎない.それゆえ,いったん純粋に同質的な空間が成立したようにみえても,不気味な存在者はその内部に繰り返し回帰することになるだろう.反ユダヤ主義的な心性の持ち主からすれば,かりに周囲からユダヤ人の存在が一掃されたところで,今度は別の存在者がみずからの存立を脅かす不気味なものとして立ち現われてくるのである.かくして純粋で均質な内部空間という幻影を追い求めつつ,異他なる存在者の排除はとどまることなく永遠に続いてゆくというわけである.」

『暴力』思考のフロンティア(上野成利/著 岩波書店 2018)

「ハビトゥスは〈身体化された文化〉であり,〈知覚に組み込まれた慣習〉である.そして近代社会は,ブルデューが述べているように,ジェンダー化しジェンダー化されたハビトゥス,すなわち「男の身体の必然」と「女の身体の必然」を生みだし,男の身体を公的領域に,女の身体を私的領域に割りふるものである.文化的慣習によって築かれている男たちの共同体は,知へのアクセスの仕方,運動競技への関わり方,人間関係の構築,友情の持ち方,食事の仕方,装い方,話し方,振るまい方などによって,若年のときから男たちのあいだに男のハビトゥスを醸成する.むろん男といっても種々様々で,それぞれの行為に,つねに共通する 明示的な男性性があるわけではない.同じ行為は,一見して女によっても共有されうるかのように見える.だが男たちの公的領域のなかに入りえた女でさえ,自分がどこか「傍流」のように感じるのは,公的領域を構築している文化慣習のなかに,男という「特性」を生みだし,それに「価値」を与え,それを「身体の必然」に変える 暗示 的 な 男性性が存在しているからである.暗示的な男性性とは,女を性的対象とする もっと正確に言えば,自分はその集団の成員の性的対象にはならない という,男たちの暗黙の合意を基盤にした男性性である.男たちの慣習行動がたとえどのように多様で多彩であっても,それらは,自分はその集団の成員の性的対象(つまり女)には なら ない という一点において,女の慣習行動とははっきりと区別される.そして「女ではない」という否定集合に基づく慣習行動は,いかに女が同様の慣習行動にアクセスしようとしても,それとの差異化を図り,それを排除することを可能にしている.」

『フェミニズム』思考のフロンティア(竹村和子/著 岩波書店 2018)

「〈出来事〉を受けとめ,その不正義を正していくことこそが私たちひとりひとりに課せられているまさにそのときに,〈出来事〉それ自体を否定する歴史修正主義的な言説が,臆面もない露骨さでもって語られ,〈出来事〉の暴力を生きてきたこれら女性たちに対して,さらなる暴力を振るっている.私たちはその暴力を告発し,糾弾する責を負っている.  一方,〈出来事〉を証すのは,証言である.〈出来事〉を体験した当事者でなければ語れないこと,というものがある.出来事の唯一無比の証人であること,それが〈出来事〉の〈真実〉を保証すると考えられている.  〈出来事〉の〈真実〉を証す証言に触れたなら,その〈真実〉を,〈出来事〉を否定する歴史修正主義者たちの眼前に突きつけて,お前たちはこれでも抗弁するのかと,言ってやりたいとわたしも思う.だが,このとき,自らの傷ついたからだを切り裂いて,その内部をえぐり出すような証言であるからこそ,そこに〈出来事〉の〈真実〉が証されているのだとするなら,それは何と,グロテスクなことだろう.厚顔無恥な否定論者たちが,それでも,〈出来事〉を否定したなら ——おそらく,彼らはそうするだろう—— 私たちは,なおも,彼女たちに,その身をもっともっと深くえぐり,当事者しか知り得ない苦痛を証言せよと要求するのだろうか.だが,いったいどれだけその身を切り裂き,どれだけ深くその肉をえぐり出せば,そして,いったいどれだけの苦痛に身をよじって証言すれば,〈真実〉を語ったことになるのだろう?  その身を切り刻むような証言だからこそ,唯一無比の証言であり,それゆえそこには, 何人 にも否定し得ない〈出来事〉の〈真実〉が語られているのだと,もし,私たちが語るとすれば,それは,私たち自身が,苦痛を伴わない証言では〈真実〉が十全に語られていない,と信じていることになりはしないだろうか.これは,拷問の論理,ではないのだろうか.」

『記憶/物語』思考のフロンティア(岡真理/著 岩波書店 2018)

「兄弟との一騎討で果てたポリュネイケースをクレオーンは埋葬せずに野ざらしにして、 何人 もそれを葬ってはならぬと布告し、違反すると罰は死刑だと脅す。妹のアンティゴネーがそれを埋葬しようとする。事実、見張りたちの目を盗んで土を被せるが、クレオーンは、もし犯人を見つけ出さなければ死刑だと、見張りたちを脅す。彼らは被せられた砂を払いのけて、監視を強めた。そこへアンティゴネーがやって来て、遺体がむき出しにされているのを見ると、嘆き声を上げ、自ら犯人だと名乗り出る。見張りたちから彼女を引き渡されたクレオーンは、彼女を生きながら墓に閉じ籠める判決を下す。クレオーンの息子ハイモーンは彼女に求婚していたのだが、このことに憤慨し、縊れて死んだ娘の後を追って自害する。これらはテイレシアースが予言していたことである。クレオーンの妻エウリュディケーはこれを悲しんで自害する。最後は、クレオーンが息子と妻の死を嘆く。」

『アンティゴネー 』(ソポクレース/著 中務哲郎/訳 岩浪書店 2015)

 「私の勉強は誰の害にも損失にもなっていません。何よりもそれはまったくもって個人的に行なわれていて、私はひとりの先生の指導すら受けず、端的に言って、私自身が自分自身の努力だけで行なっています。というのも、私とて、学校で 公 に授業を受けるのは女の場合、男性との親密さの機会となりうるがゆえ、女の篤実にふさわしくないこと、そしてそれが、公に勉強することを禁ずる理由であろうことを知らないわけではないからです。そして、女に公的な勉強の場が割り当てられていないのは、公的部門が法職者(同じ篤実の理由によりここからも女は排除されているわけですが)の職務に女を必要としていないため、その役に立つことにならないものには気を配らないからでありましょう。しかし、私的で個人的な勉強は、誰が女たちにそれを禁止したのでしょうか? 女は男と同じように理性的な魂をもっていないのでしょうか? もっているのなら、女の魂もまた、私的な勉強を通じて学問による開明の恩恵に浴さないはずがあるでしょうか?  女の魂も男の魂と同じだけ神の恩寵と栄光に浴すことができるものではありませんか? そうであるなら、神の栄光より小さなものである知識と学問が、女にも同じだけ可能でないはずがあるでしょうか? 神のどんな啓示が、教会のどんな決断が、理性のどんな判断が、私たち女にだけ、こんな厳しい法を課したのですか? 学問は救いの助けになるのではなく、むしろ妨げになるのですか? 聖アウグスティヌス(*)、聖アンブロジウス(*)、その他の聖人博士たちは皆、救いを得たのではないのですか? そして神父様ご自身も、多大な学問を背負ってらして、救いを得ようとお思いでないのですか?」

『知への賛歌修道女フアナの手紙』 
(ソル・フアナ/著 旦敬介/訳 光文社 2007)