道しるべのための備忘録 2018/5/14

夜半楽「澱河歌」(三首) 蕪村

「君は水上の梅のごとし花水に

浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)ヵ也

妾(せふ)は江頭の柳のごとし影水に

沈(しづみ)てしたがふことあたはず」

『天明俳諧集』新日本古典文学大系73巻(山下一海/[ほか]校注 大塚信一/発行 岩波書店 1998)

「父性による切断は、ものごとを分離し、区別する。天と地、善と悪、強と弱、などの分類が行われ、神との契約を守る「選ばれた民」が神に救われるのである。従って、人々は神に救われるためには、選民としての努力を払わねばならない。ここに父性的な宗教の厳しさがある。これに対して、母性的な宗教は、すべてを母の胸の中に包みこんでしまう。それは何ものをも包みこんでしまう暖さをもつが、子供が母なる世界から出てゆくことを許さぬ力をもっている。父性的な厳しさから生じてくる「個」というものを、母性的なものは許さない。」

『ユングの生涯』(河合隼雄/著 第三文明社 1978)

「もちろん日本の近代国民国家の力の中に透明に組み込まれてしまうわけではありません.日清戦争後の世紀転換期になると,沖縄でも積極的に日本に同化して主体化しなければ生き残れないという意識がかなり強まり,太田朝敷のような人が啓蒙知識人として力を持っていきます.しかし,その中で 20 世紀初頭の明治末期に琉歌が流行った時期があります.日本の近代に飲み込まれるしかないと思った中で,日本の言葉が盛んに導入されて和歌も流行りますし,近代詩が日本で生まれるのと呼応して,沖縄でも新しい近代の文体で詩を書いていく詩人たちが現れます.その一方で, 1910 年前後には,近代詩や和歌の流行と同時に,琉歌をつくるブームがあった.琉歌は三十一文字とは違って八・八・八・六の三十文字ですから,韻律も違いますし,言葉も琉球語,ウチナーグチが使われました.そこには日本の近代の言葉に組み込まれながらも,あるずらしを込めて主体の回復を行おうとした願いがあったはずだと思います(黒澤亜里子「琉歌と和歌という境界」『短歌と日本人 4 詩歌と芸能の身体感覚』岩波書店, 1999 年).これは繰り返し沖縄と日本のあいだで起こっていることだと思います.」(米谷匡史/述)

『変成する思考』グローバル・ファシズムに抗して (思考のフロンティア 第II期)(市野川 容孝/[ほか]著 岩波書店 2018)

「私自身は子どもがどのように知識を創造していくかということを知りたくて、語彙の習得を中心に研究している。知識は断片的な事実の寄せ集めではなく、システムである。子どもは語彙という巨大な知識のシステムを、そのしくみを発見しながら自分の力で創り上げていく。知識はつねにダイナミックに変化し、生き物のように成長し、今ある知識が新しい知識を創造していく。母国語を習得するときには誰もがこのような「生きた知識の学び」をしている。この知識構築・創造の姿こそ、「主体的な学び」の本来の姿であるはずだ」
『学びとは何か』〈探究人〉になるために (岩波新書)
(今井むつみ/著 岩波書店 2016)

「人間ないし人生についてのこうした否定的な見解は、「律法主義」における人間の否定的評価を考慮しなくても、ごく自然なこととして考えるべきだと思われます。 人間や人生を肯定的に評価しなければならない、というイデオロギーが存在します。どんなにつまらない生活や人生も「かけがえのない価値」があるのだというように表明しなければなりません。社会的にはそれが「正しい」態度だと、されています。つまらないものを「つまらない」とさえ言うことができません。しかし著者は、堂々と正直に「つまらない」と言っています。 著者の背景にあるのは、超越的になって遠ざかっていく神、被支配の屈辱的な状態に長くおかれている 閉塞 の状況、長い平和の中で日常生活の小さな範囲内でしか可能性のない自由、などだと考えられます。それでも「素晴らしい」と言わねばならないのでしょうか。」

『別冊NHK100分de名著 集中講義 旧約聖書 』「一神教」の根源を見る
(加藤隆/著 NHK出版 2016)