VdBL俳句を作ろう 7日め/2月12日朝 Love Letter for BL!

打越マトリクスをじっと見つめて、型を作ろうとしてうまくゆかず、寝て、今起きた。うまくゆかないというのは、自分のことばのだめなところばかりが目につくようになってしまったのだ。かたっぱしから書いては捨て書いては捨ての繰り返し。トライアンドエラーエラーエラーエラー!もちろん楽しくないし、なんて私はだめなやつなんだと思うようになってしまった。こ、これはいかん!と思って15才のための短詩のアンソロジーを読みはじめる。すると、今まで巧拙なんて気にしたことはなかったのに、なんでこんなふうに詠めるんだ!?とそちらが気になるようになってしまった。アンソロは最高だったしこれは後でちゃんと感想を書こう。

1週間だ。1週間で何ができるというんだ。うまくいかなくて当然だと思うのに、うまくいかなくてもどかしくていらいらしてる。どうして、どうして、BがLしないんだよ~~~!こんなに好きなのに。ずっと好きだったのに。好きなだけじゃ足りないか、そうか……。

思い返せば、私は14才のときにはじめてBLを読んで、それからずっとBLが好きだった。三十路を過ぎて今でも変わらないで好きでいられるものってそんなに多くはないんだよ。大好きな友達だってそれぞれの道を歩み、結婚したり、出産したり、あるいは仕事で海外へ。あちこちに散らばっちゃって、会いたくてもなかなか会えない。学生時代に打ち込んだことも、今ではもうすっかり忘れてしまって、でもBLだけはずっと読み続けてきた。私の人生のあらゆるステージにBLがあった。仲の良い友達とケンカしたときも、受験戦争で負けそうなときも、家族のごたごたで疲れ果てていたときも、仕事にうまくなじめずにいたときも、ひとりのときも、みんなのときも、私の人生のそばにBLがあった。私はいつでもBLを愛して幸福だったのだ。BLが市民権を得る以前、なんで男同士の恋愛に夢中になるのか、と言われ、評論を読み漁ったこともある。今でもそれは確かに研究する値打ちのあるテーマであるとは思うがしかし、それよりも大切なことがある。今ここにいる私がBLを愛していることだ。

ひとは何かを愛さずにはいられない。そしてそれを選ぶこともできない。対象は何でもいい。デゴイチだって、標識だって、納豆のパッケージだって、食玩だって、死者にだって、ひとはたやすく、しかもどこまでも好きになれる。それこそが、ひとのいとおしいところ。

自分が何を好きだったのかさえも忘れて生きていくことはさみしい。私は俳句がうまく詠めるようになりたいんじゃない。いやもちろんうまく詠めるようにもなりたい。でも、それは手段であって目的ではない。なんのためにうまくなりたいのかって、そりゃあBLを詠みたいからじゃないか。私は私の海で泳ぎたいのだ。BLに抱かれて眠りたい。もう一度自分が安全だと感じたい。私がわたしでいられる場所へ帰りたい。これが逃避ならそれでもいい。私はいっこうに気にしない。

誰かに何かを伝えたいと思うなら、うまいへたよりも大切なことがあるんじゃないか?へたでもいい、でも愛がないのは許せんぞ。

よし、再挑戦!