公共哲学から考えるコロナ

何かの物事を考える際には、何らかの補助線を引いたうえで、それとの類似/相違をもって解釈していくというのは思考法の基本であると思われます。

そんな中、コロナ対応を公共哲学として補助線を引く明確な論考に接し、非常に興味深かったので紹介させていただきます。

1 コロナと自由

この論考の中で萱野教授は、コロナ対応の問題を功利主義とリベラリズムの観点から整理しており、非常に興味深いです。

今回のコロナ禍において、諸外国では都市封鎖(ロックダウン)を行う例があるものの、日本は「外出自粛」という若干微妙な位置づけの手段をもって対応しているが、期待されている効果が出ているとは言い難い状況が続いています。

そのような中で比較的現政権に批判的な人の中でももっと強力な対策をとるべきという論調の人々がいて、その人々は普段は「リベラル」を自任しているものの、その人々を揶揄して「普段は国家の介入を嫌っているのに、こういうときだけ介入を求めるのは一貫性がない」などと言われているのをみかけました。

この件は私の中で若干引っかかっていて、直感的にはリベラルの価値観からはロックダウンも正当化されるのであるが、上記の揶揄も論理的には一理あるのかなと感じるところがありました。

そのような中、本論考に接して膝を打ちました。萱野は述べます。

ミルは他人に迷惑や危害を及ぼさない限り各人の自由は尊重されるべきだと考えました。逆に言えば、他人に迷惑や危害を及ぼしてしまう場合、各人の自由が制限されるのはやむをえないということです。その観点から言えば、今回の緊急事態宣言による私権制限はリベラリズムによっても十分正当化されうるものです。

少なくともミルの「リベラリズム」は、各個人が何をするか、何を考えるかを自由に選択できることが個人の幸福にとって重要性をもっており、したがって、基本的には個人は自由に行為しうることが保障されるべきであり、一方、その許容性として他人に迷惑や危害を及ぼす場合には当該正当化は成り立たず、自由としては保護されないと考えるものだとするのです。

外出自粛を例にしましょう。新型コロナウイルスの感染が拡大している現在の状況では、自由な外出そのものが感染を拡大させてしまいかねません。これは、リベラリズムの立場からしても「他人への危害」に該当します。リベラリズムは自由を重視しますが、その自由とはあくまでも「他人に迷惑や危害を与えない限り」という制限の下での自由です。

外出自体が「他人に迷惑や危害」を及ぼす場合にあたると考えるならば、外出自粛は正当化されますし、(手段の必要性、合目的性という要件も入りそうですが状況によってはそれも満たすとすれば)ロックダウン自体もリベラリズムの価値観から正当化される、ということになろうかと思います。これは「他害原則」などと表現されているかと思われます。

この部分だけでも私の考えていたモヤっとして部分をかなり整理してくれたように思いますし、同時に、もう一つの私の気になっていた部分を解消してくれるように思われます。

すなわち、ミルの他害原則は自由論としてはかなり広範に自由を認める考え方と思われます。そして、日本国憲法で保障された自由の解釈論において上記の考え方が貫徹されているかというと、そういうこともないように思われます。例えば、夫婦別姓はリベラリズムの標準的な考え方からすると「他人に迷惑をかけていない」ということになり、当然に認められてしかるべきかと思いますが、現行憲法上保障されているわけではないという結論になっていると理解しています。

そこには後述するコミュタリアリズム的な価値観も入り込んできているのかと思われますし、功利主義的な価値観も入り込んできているのかもしれない。そういった価値観とリベラリズムとの相克の中に、憲法の保障する自由というものは位置づけられることになります。しかしながら、もっともプリミティブにリベラリズムの根源的な価値観に立脚したところであっても、ロックダウンは認められるということになると、論理的には、憲法がどのようにコミュタリアニズムや功利主義の価値観を取り込んでいたとしても、憲法上の人権規定からもロックダウンは認められるということになろうかと思います。

2 補助線としての公共哲学

萱野は重要な指摘を続けます。すなわち、公共哲学においてリベラリズムと並ぶ重要な原理である功利主義をもってしても、自粛やロックダウンは正当化されること述べたうえで、今回のケースは功利主義とリベラリズムが緊張関係にないということを結論します。

そして、憲法13条や憲法29条3項を指摘し、憲法との関係においては以下のように述べます。

このように日本国憲法にはリベラリズムの原理と功利主義の原理のどちらもが織り交ぜられています。憲法を制定した人たちがそうした言葉を意識していたかどうかは別として、それだけこの2つの原理は根源的な政治哲学の原理だと言えるのです。

リベラリズムや功利主義は「生の言葉」です。生の言葉であるがゆえに、価値観として世界を整理するうえで重要な役割を果たします。同時に、これは憲法的規定の中にも抽象的に盛り込まれており、法解釈の前提となるはずですので、この接続を意識することで「生の言葉」を憲法的価値の中に共役可能な形で取り込むことが可能になるかと思います。

こういう危機の時代であるがゆえに、先人たちが引いた補助線を意識しつつ、目先の印象に左右されず物事にあたっていくべきかと思います。




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