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『忘れ難きモスコーの夜』・続

金曜日にモスクワの音楽院で10年ほど勉強した方たちのピアノコンサートというのにご招待していただいて、スクリャービンと、山田耕筰の『忘れがたきモスコーの夜』、そしてラフマニノフの2台ピアノのための『鐘』という曲を聴いた。

今月、ロシア語話者の方々と最近少しお話しすることが増えた。彼らは必ず挨拶を返してくれる。すれ違って1メートルぐらい離れたタイミングでも必ず挨拶を返してくれる。自分がどれだけ崩壊した喋りをしていても、わざわざ来てくれてありがとう、と言ってくれる。

これが引き金となって、久しく忘れていたロシア語とロシア語圏への郷愁のようなもの、晴れた日に友達とあるいたクレムリン、グム百貨店の傍で一緒に食べたピスタチオのアイスクリーム、連れて行ってくれた白鳥の湖、アルメニアの美しいセヴァン湖、熱湯が突然出るキエフの安宿、コートのファスナーが壊れて死ぬかと思ったチェルノブイリ原発見学時の冬将軍の寒風、モスクワの空港そばでアルメニア人の家族がやっていたB&Bの美しい朝食、聖ソフィア大聖堂の緑のコートを着て「写真を撮ってはいけません」という係のおばさんたち、頼んだらお肉を抜いてくれたキエフの食堂のお姉さん、渋滞なのかいっこうに来ないキエフの空港タクシー。

そういうものがぶわっと思い出されてきて、苦しい。
シェレメーチエヴォ国際空港から約16kmのそのB&Bの宿は、BOOKING.COMの履歴を見たら受付していなかった。今もやっているかわからない。

また行きたいけれどもまた会える人たちかはわからないし、あのころにひたすら歩いた町に同じ光景がいまもあるかわからない。

11月のヴォルゴグラードは雪が降らないので寒さの尺度がわからず、そして一人きりでママエフ・クルガンの丘を歩いていたらあっという間に日が落ち、寒すぎて凍え死ぬかと思った。

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先日ほんとうに追い詰められていた時に古い知人が連絡をくれて仕事をくれた。

半年ほど転職にじたばたしていて、もう諦めて私がやってきた外国語とは違う仕事を契約しかけていたところで、そのひとから仕事をもらわなければそもそもロシア語を続けることすら叶わなかった。自分がロシア語を習いに行くことはもちろん、正直自分のレッスンの存続すら危うかった。なにがなんでも約束した時間には家にいなければならないので、絶対的にフリーでなければ守り切れないというか。

全然違う仕事を契約しかけたきっかり1時間後に連絡があって、その人は「まあ、(ウチの仕事をやってくれと)強要はしませんが」と言いながら私をいとも簡単にそっちの仕事にあっさりさらっていったから、これは何かに似ているとよく考えたらヒキガエルと結婚させられそうになって泣いていた親指姫をさらって幸福に乗せるツバメさんみたいだった(注・私はお姫様ではない)。

思えばいつもこの人、私が追い詰められた絶妙なタイミングで仕事をくださるのだけれどもなにか野性のカンでもあるのだろうか。お礼を言ったけれども本人に伝わったのかはよくわからない。

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ツバメさん(その上司)がわたしをそっちの仕事にさらっていってくれたことで、単純に自分がピアスを買ったりする余裕ができただけでなく、私自身もやってきたこと・やるべきことを続けられた。

この1か月、たくさんの人たちが私にお礼を言ってくれた。そのうちには私が上に書いたようなロシア語圏であるいたときの懐かしさをまとった人たちもたくさんいらしたのだけれども、本来ならばこの人と、間接的に仕事を回してくださった先輩方にそのお礼と、なんというか私がもらった内側の静かな感激を直接そのまま空気ごとにラッピングしてプレゼントしたい。

自分がなんのために大した語学の才能もないなかに大変な思いをして「その他の外国語」を勉強して、大量の時間とお金を投じて、大量の感情を葬ってここまで薄氷のような、危うい言葉のせまい世界にこだわっていきてきたのか。

結局、自己実現とか単純にお金を得るとか、私がいただいたお金でピアスを買ったり納豆だけの生活から脱出するといったことは本当にどうでもいいことで、
縁のある人みんなに幸せになってもらわなければ意味がない。

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外国語というのはそれがないと生きていけない人たちのコミュニティ、それが必ず必要である世界線も確かにあるのだけれども、
それは夕暮れの水平線のように危ういもので、自分のようになにもかもの力量が中途半端でただ続けてきたからこそいろんなご縁をいただいていた人間にしてみれば、
一歩そこから離れてしまうとただのお金と時間が猛烈にかかるただの趣味であり贅沢品になる。

日本にいる以上日本語だけで生きられるから。
日本語だけで十分だし、そして日本はアメリカ文化圏のなかにあるから、英語ができればさらに良い。
ロシア語”なんて”。そういう危うい日々をわたしは過ごしていた。

いた、というのは仕事をとってくれて、ロシア語の仕事をしたい私の居場所を増やしてくれた。
ロシア語を続ける余裕をくれた。
ぽつぽつとしたメッセージのやりとりで、仕事上多少賭けに出てでも私と仲間の居場所(仕事)を増やしてくれたんだろうな、というのはなんとなくわかった。
別にそういうことをわざわざいう人ではないから、多分、これをお礼で言っても「自分の評価のためデスカラ」「みなさんあっての私デス」、という返事が来るだろうのでこれ以上はご本人には伝えないと思う。
だからこの人に、生まれたてのヒヨコのようについていくことに、した。

昔営業の仕事をしていた頃、当時の上司に毎日怒鳴られて泣いていた。
その頃付き合っていたひとはデートDVというか、暴言がひどくて、格闘技の人だったので流石にフィジカルな暴力はなかったけれど、暴言がひどいあまりに翌朝針で全身を刺されたような痛みに襲われていた。

現在のヒヨコ(私)の上司さんはひらがなをカタカナに、薄い青文字を濃い青文字に修正するだけでも「スミマセン」という。
深夜の納品が間に合わず間に挟まれた関係者を怒らせてしまった時も「ワタシハ大丈夫デス」、とおっしゃっていた。
ある時突然それに気がついたら、なんだものすごく優しい上司と先輩がたなんだ、ということもまた、突然気づいた。

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モスクワの、ロシアの、ロシア語圏のあの場所をまた確かめに行きたい。
けれどもちょっと頭がおかしいのではというくらいに昔ひたすらヴォルゴグラードやらアルハンゲリスクやらを歩いていた時期を思い出すと、
今の自分がそこに行ってどうなるという葛藤があり、次に行くのはなんらかの仕事をいただいたときになるかもしれない、と2016年に長期滞在から帰国したときになんとなく決めている。

それも思えば変なこだわりなのだけれども、今の自分には縁のあるひとたちのところでロシア語を辞めないことしかできない。

なにもかも放り出してヨーロッパに駐在している友人を捕まえてクラコフあたりでのんべんだらりとビールを飲みたいともおもったけれども、チケットは40万円だった。


Спасибо Вам большое:)♡!!! ありがとうございます:)♡!!!