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ことばへの執着と、世界との接点となにか



記憶にあるかぎりわたしは三歳頃から「あいうえお」
の練習をしていて、
洗濯物をほす母の邪魔をして『あいうえお、やろう』と
文字の絵本をもっていった 
ほんとうに、母のおかげで、
日本語が理解できて、
操れてほんとうによかったとおもう
よくわからない外国語、よく操れないロシア語でロシアでくらす、
わたしをとりまくロシア語での世界認知の不安定さが、
わたしの知っているほかの言語においてもそうだったとしたら、日本語でもそんな不安定だったら、わたしは不安すぎて孤独死してしまうとおもう。(2016.2)


ことばのべんきょう』(かこさとし)


上の記事は私がしばらくロシアに住んでいたころ(2016年)に書いた。当時の私は語学学生という立場であったからよかったようなものの、本当に全部が全部ことばを理解できない世界(ロシア)で暮らすというのは情緒不安定と紙一重であった。滞在して1年経ってももちろん全部わかるようにならず、冬の寒さとともに、ネヴァ河が凍るのとともに、言葉が「わからない」という悩みは深くなっていった。

小学生の時に、お父さんの転勤でヨーロッパに暮らしていたトリリンガルの友人Mによると、彼女は小学生にしてせっかくオランダにいて、フランス語やオランダ語の書籍が読み放題だったのに、貪るように日本語の本を読んでいたのだという。彼女のお母さんにも「なぜわざわざ日本語の本を」と訝しがられたというのであるが、その気持ちは今なら私にもわかる。

ことばというのは自分が世界を認識し切り取って把握し、世界と自分が交わる交点の足元をつくっていくための一つのツールであって、触れる言語のうちの何かが確固としていないと、その世界認識すべてが不安定になるのである。そういう意味で私はとても言葉に執着しているというか、ことばがないとこの世界で生きられないとおもう。





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ハルカ
Спасибо Вам большое:)♡!!! ありがとうございます:)♡!!!