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『アンチ・ポリコレ』に思うこと

毎度の事ながら、本記事も深夜テンションで書いているので、あまり真に受けないでほしい。


新作映画、特にディズニー等の大手の映画で、セクシュアルマイノリティのキャラクターが出てくる度に、
ポリコレが〜』という言葉を耳にする。

そしてその多くが、セクシュアルマイノリティの描写を問題視する理由として『価値観の押し付け』を挙げる。


では一体、この『価値観の押し付け』とは何を意味するのか?
別のものに置き換えて考えてみよう。

例えば、日本が舞台の作品の中で、おそらく日本ではマイノリティとされるであろう、キリスト教信者のキャラクターがいたとしよう。

この場合、キリスト教信者の登場は我々観客に対し、『キリスト教を信仰しろ』と訴えかけているのだろうか?
映画のテーマそのものが布教目的であれば、そう汲み取ることもできるだろう。
しかしながら、本筋と全く関係の無い要素としてキリスト教信者が出てきたところで、キリスト布教ムービーにはならないはずだ。

セクシュアルマイノリティに関しても同じことが言える。
道端で同性愛者の男性が歩いていたとして、
『おい、ゲイが歩いてるぞ!
俺たちもゲイにするつもりだ!!』
なんて考える人間がいたとしたら、それは単純に頭がおかしいとしか言いようがない。


つまり、
自分の見ている作品の中に、セクシュアルマイノリティのキャラクターがいるだけで、
自らをもセクシュアルマイノリティへ導かれていると考えるのは、完全に見当違いであり、ナンセンスだ。
価値観の押し付けであるはずがない。

そこには『セクシュアルマイノリティを認めろ』というメッセージすら存在しない。
そこに存在するのは、ただただ、『セクシュアルマイノリティであるキャラクターがいる事実』だけだ。

その単純な事実から、価値観の押し付けまで深読みしてしまうのは、読み取り手の落ち度としか私は考えられない。
『ポリコレ』の文字に過剰に反応する揚げ足取りにしか見えないのだ。

もちろん、制作側にセクシュアルマイノリティの存在を広く知ってもらおうという意図はあるかもしれないが、その意図は観客が汲み取る余地ではなく、
間違っても『観客をセクシュアルマイノリティにしてやろう』などといった思想は込められていないはずだ。

困りもしないマイノリティ描写にいちいち苦言を呈す人間と、私は一生理解し合えない。
そういう意味で私は、アンチ・ポリコレに対するレイシストかもしれない。

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