ハッピー・エンドが教えてくれること「魔法にかけられて」(enchanted)

2009年公開。主演のエイミー・アダムスの出世作となった、ディズニー製作の大ヒット映画で、主題歌のひとつである「That's how you know」のテーマが記憶に新しい人も多いだろう。アニメーション+実写という手法もさることながら、当時大きく話題となったのは、この映画が、ディズニーのアイデンティティともいえる(?)「王子とプリンセス」のハッピーエンドや、おとぎ話のお約束あれこれを大胆に”自虐”したコメディであることだ。

魔法の王国・アンダレーシアに住む森の乙女ジゼルは、動物のお友達と暮らしながら、「運命の人」との恋を夢に見ている。王国の王子エドワードもまた運命の恋にあこがれているが、義理の母であるナリッサ女王は、息子の花嫁が自分の王座を奪うと恐れ、あの手この手を使って二人が出会わないように邪魔をしている。

しかし女王の策略もむなしく、ふたりはついに出会い、恋におちる。白馬にのって歌いながら夕日にむかうお約束のシーンに続き、翌朝もまた、お約束の結婚式のシーン。動物のお友達と丹念に縫い上げたウェディングドレス(一晩で縫えるわけないのに!!)をまとい、教会へと急ぐジゼルを突然、老婆が呼び止める。もちろん、老婆(=魔女)に扮した女王だ。「”願いがかなう井戸”で、幸せな結婚生活を願うといい」という嘘にだまされ、ジゼルが身を乗り出したとたん、井戸に突き落とされてしまう。

かけつけた侍従が「一体、娘はどこへ行ったんですか!?」と聞くと、「『幸せな結末』なんて、どこにも存在しない場所へだよ」と不敵に笑う女王。この辺りもエスプリが効いていて、ついクスリと笑ってしまう場面である。

さて、井戸におちたジゼルがたどり着いた場所は――。ニューヨークはタイムズ・スクエアのマンホール。ここでエイミー・アダムス扮する、少々とうのたった実写版”プリンセス”ジゼルが登場。「お城はどこ!?」「エドワードを知りませんか!?」と叫びながら人波にのまれ、もみくちゃに。親切なおじいさんと思って助けを求めたホームレスにティアラを奪われ、「あなたって…おじいさんのくせにちっとも優しくないのね!」と罵倒するシーンは爆笑だ。進退窮まり、困り果てた彼女がついに出会ったのは、離婚専門弁護士のロバートと娘のモーガンだった。

ロバートは、恋愛に、夢も幻想も持っていない。娘のためにも再婚を考えており、恋人はいるのだが、アシスタントに「毎日あんなの(離婚協議に訪れる夫婦)をみていて、よく結婚する気になれますね」と言われても「みんな熱にうかされているだけさ。僕とナンシーは冷静だからね」という、徹底的なリアリストだ。プリンセス物語が大好きな娘のモーガンを心配し、空手を習わせてみたり、「世界の偉人女性たち」という本をプレゼントして「現実は、おとぎ話とは全く違うんだよ」と語っては嫌がられている。そんなロバートとジゼルの出会いは、とっかかりの台詞からエンジン全開。

ジゼル:「遠くから来て、助けを求めているのに、親切にしてくれる人が誰もいなくて・・・」

ロバート:「(苦笑)そうかい、ようこそニューヨークへ!」

ジゼル:「(歓迎されたと思い)ありがとう!」

ジゼルの登場で、ロバートの日常は激変する。彼女の空気が読めない言動のせいで恋人や職場との関係も混乱し、何を言っても「エドワードがきっと迎えにきてくれる」と信じて疑わない彼女についていけず、心を鬼にして追い出そうとする。しかし、彼は自分でそうと気づいていないだけで、優しく繊細な心を持っており、どうしてもジゼルが気になって捨て置けない。過去の痛手から自分の感情を押し殺して生きており、彼女を知るたびに、そのまっすぐな強さと明るさにとまどいつつも”何か”を感じているのだ。「王子と出会って1日で結婚するのかい!?うまくいくはずがないよ」「ナンシーと出会って5年で、まだ求婚もしていないの?彼女、怒るはずだわ」と、あいかわらずかみ合わない会話をしながらも、お互いが互いに足りない何かを持っていることに、少しずつ惹かれていく二人。

しかし本当にジゼルを追ってきたエドワードと再会し、ジゼルのニューヨークでの生活は終わりを告げ、ロバートとの急な別れがやってくる。(実写版王子のエドワードが市営バスと戦ったり、セントラルパークでジゼルを見つけた喜びを歌っていて自転車の大群に轢かれるなどのユーモアたっぷりの描写もみどころ)

あきらめきれずに、ロバートとナンシーが参加する舞踏会イベントにエドワードを誘うジゼル。それが終われば、必ずアンダレーシアに戻ると誓って・・・

この映画で繰り返し語られるキーワードは、「真実の愛のキス、それは魔法よりも強い」「ハッピー・エバー・アフター(いつまでも幸せに暮らすこと)」の2つだ。ジゼルがそう主張するたびにロバートによって否定され、私達観客もまた、ロバートに感情移入しながらジゼルを「現実を受け止めきれない、残念な女の子」として笑いの対象にする。エドワードが本当に助けにきてくれたのだから、二人でアンダレーシアに帰れば「ロバートの物語(現実の人生)」と「ジゼルの物語(おとぎ話の人生)」はそれ以上交錯することなく、お互い別々の世界で存在していっただろう。しかしそう終わらせないのがこの映画のすごいところで、最終的に、「真実の愛のキス」で結ばれたのはロバートとジゼルだった。そしてエドワードも、また・・・。(これは、映画を見てのお楽しみ。)

厳しい現実を生きる上で殆どの大人は、「否定グセ」がついてしまっている。「期待しないクセ」とも言おうか。「そんなこと、あるわけない」「信じても、裏切られるだけ」「夢なんて見ない方がいい」・・・そんな言葉の数々は自分を強く見せるようでいて、実は、傷つくことを恐れるあまりの鎧なのかもしれない。一番やっかいなのは、自分がそう思いすぎるあまり、周りのピュアな想いや言動に眉をひそめがちになることだ。ジゼルが心から王子とのハッピーエンドを信じていればそれでいいはずなのに、つい「そんなこと、あるわけないよ」とおせっかいにも口に出したくなってしまう。純粋なものは傷つけられ、「希望」という芽を摘まれてしまう。映画の途中まで、そんな目で彼女を見ていた自分にはっとしてしまう。明るすぎるものが眩しくて、目障りだ、そう感じる人が他にもいたなら、それは、心の底ではそうありたいのに出来ない、ピュアな自分の必死の叫びなのかもしれない。子供のころ、傷つくことを恐れずに、好きなものは好き、愛している人には愛していると、なんの屈託もなく言えた自分。夢は叶うと信じていられたあの頃の自分が、「まだここにいるよ」と、心の内側からトントンとノックする音なのだ。

大人になるにつれ失ってきたもののおかげで、私達は、少しは強くなることができた。でもそれが、あっていいはずの「純粋さ」を人にけなされても平気でいられるための強さだったら、なんて悲しいことだろう。物語の中盤、セントラル・パークで愛の素敵さを歌うジゼルのまわりにニューヨークじゅうの人々があつまり、皆が笑顔になる。純粋さは、もろく弱いようでいて、実は、とっても強いものだ。ひとの心を溶かし動かすからこそ、恐れられ、閉じ込められてもしまう。けれど、いくらふたをしてみたところで、自分に嘘をつくことはできない。ピュアなジゼルと、それを阻止する魔女の戦いは、きっと、誰の心の中にも存在する。それでも、誰かとつながることを恐れずに踏み出すのは、いつだって、純粋で勇敢なプリンセスの役目であり、その意味では誰もが、プリンセスになれるはずなのだ。

「そして皆はいつまでも、楽しく、幸せに暮らしました」――。このエピローグがこれほど似合う映画は他になく、「幸せになること」ではなく「幸せでいつづけること」について考えさせられる、とびっきりのエンターテイメントだ。(終)

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