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【森高千里】レッツ・ゴォーゴォーツアー 横浜2日目 選曲と歌唱の力でいまの空気と私的世界観を曲に吹き込む→曲、古くならない

◎本稿には最低限のセットバレがあります

米大統領選のさなかだが、民主党と共和党どちらの候補者を「支持」するかどうかについてアーティストの発言がときおり注目される。テイラー・スウィフトはカマラ・ハリス支持を打ち出した。カントリー系などのシンガーにはトランプ派も多いだろう。人気商売だけど世の中が、つまりはマーケットが二分されるイシューについて自身の立場を表明することに尻込みしない。アメリカ社会はその意味で、出た杭を叩きがちな日本人よりは健全なのだろう。いろいろ行き過ぎるところもあるけれど、言いたいことも言えずに大勢に巻かれて息苦しくなるばかりの日本社会よりは10000倍まし。そこは民度と練度の違いである。

日本では小泉今日子の発信が注目されている。彼女はいろいろ真っ直ぐにやってきて、ブレず、現在進行系でその真っ直ぐを貫いている。たぶんアンチも湧いているだろうけれど、ほとんど気にしていないように見える芯の太さがある。一人ですっくと立っていて、失うものはあんまりないんだろう。素敵な人生だ。

さて森高千里はどうだろう。彼女は右左問わず陳腐で考えの浅い政治的発言をふだんいっさいしない(日本の「政治的」アーティストは底が浅すぎる。前言翻すようだがあれならしないほうがマシ)。それに対し森高は、発言しないその代わりに、ライブのセットリストにどの曲を入れるか、そしてそれをどうパフォーマンスするかで、怒りをはじめとする自分の意見、時に主張を表明する。それは「言葉」によるどんな発言よりも雄弁だ。あいまいなところはまるでない。

今回6都市で12回開催されるZeppツアー「レッツ・ゴォーゴォー!ツアー」でいうと、転職するか悩む23歳女子が友人を呼び出して愚痴る曲(1992年2月「コンサートの夜」カップリング曲)、そして間髪入れずに投入されるこれもまた久しぶりの某曲、という流れに、森高がいまの日本社会をどう見ているかの片鱗がうかがえる。

「でも最近は転職もあたりまえみたいよ」と30年前に歌詞にしている預言者ぶりもさることながら、気分だけは当たり前だけれどそれが個人の成長や収入のアップに必ずしもつながっていない「やってる感」だけの転職推進、労働市場の流動化施策に翻弄される人たち、特に、諸々の指数をみても一向に上昇しない社会における女性の地位に対する苛立ち。「続・あるOLの青春」をいま取り上げるのは、そんな2024年のもやもやを曲に込めることができると判断したからだろう。そうでなければ筋が通らない。アレンジの改良を含めたそういう「込め方」のウェルメイドさ加減が、「まったく古くない」曲のイメージを醸成する。繰り返すが、32年前の曲である。その間に変わっちまったもの、変わってほしいのに全然変わらないもの、に対する森高の観察眼とそれを発信する力の確かさ、揺らぎのなさ。

間を置かずイントロに入る「のぞかないで」。表面的な歌詞はスカートの中を覗かないで、というもの。ただ、秋元某とかがつくるような「ちょっとエッチな」つまり思春期男子の目線を内在化したおっさんが書く女子主人公の歌詞とは全く違う。当時の森高は1989年に「ザ・ストレス」次いで「17歳」をリリースし上げ潮に乗っていた頃で、職業作詞家には絶対書けないセンセーショナルな歌詞とともにステージ衣装が注目されていた時分だ。だからこの曲は表面上は歌詞的には痴漢ないしはパパラッチ的な男どもに対して怒っていることになるのだが、今ツアー初日のKT Zepp Yokohamaで10曲目に演奏されるこの曲の歌唱は、そんな生易しいものではなかった。

「世の中のルールを無視しているのよあんたは」「卑怯者だわ」「ほんとのワルだわ」「いつか必ずバチが当たる」「謝れ」「変態」と真っ向「糾弾」するのは、政治屋や越後屋みたいな大企業や自分で何も動こうともしないし向上心もなくただ冷笑的でSNSで毒を吐くばかりの大衆(おれか!)や、そういう男社会全体に対して「キレて」見せている。「いつか仕返ししてやるから 見ていろ」と歯を食いしばるように、太く、激しく、吐き捨てるように歌った。ただごとではない。以前、森高の歌詞にはダブルミーニングがないと思っていたのだけど、そんなことなかった。自分の中で取り消し。

この曲が91年リリース「臭いものには蓋をしろ」のカップリングであることも注目。飲みながらロックのウンチクを垂れる講釈オヤジを「本でも書いたらオジサン」と切り捨てるあの曲。23年Zeppツアーでは、サビの決め台詞「ロックはだめなのストレートよ!」がツアータイトルになっている。このロッストとのぞかないでの2曲のむき出しの「怒り」は森高の原動力になっているし、それゆえにZeppツアーではキーとなる選曲だろう。

職業作詞家作曲の初期の数曲を除き森高自身の作詞曲で構成される今回のツアーは、いわば森高の私小説のような手触りがある。

もう1曲だけ挙げるなら、古参のファンのリクエストも多いと聞いていたあの曲だ。シンプルな言葉遣いで旅先の情景が描写され、同じ場所の、でも自分が置かれた境遇は違う、時間差のあるエピソードがオーバーラップする。オリジナルよりロック色を強めたアレンジで演奏されるこの曲は、サビで繰り返す「今日から私は変わる 思い出の岬で/今日からすべてが変わる この海に誓うの」の詞を24年のいまにどう響かせるかがポイント。失恋した若い女性が痛みを捨て再起を誓うというフォーマットにはめて聴きがちだが、今回ステージで演奏されたものを聴く限り、これは自立の歌で、そこはもしかしたらジェンダーを越えているかもしれない。誰かに頼らず、一人で生きる強さを手に入れることを誓う。その意味で泉谷しげる「春夏秋冬」に連なるプロテストフォークなのかもしれない。

一人一人の自我も自意識も自立心も自律心も弱く弱々しくなっちゃったいまの世の中に、こういう曲は必要だ。森高は「難しい曲だから」と言ってたそうだけど、長い間、この曲がちゃんと「響く」局面を待って、満を持してセットに入れたのだと考えている。

もう1曲書きたくなった。Wアンコールでやった某曲。強烈な自意識。自分のことをもっと見て、よそ見をしないで、という振り切った自己顕示。マウントみたいなチンケな横並び競争とは端から無縁の、全てをさらけ出したいという逃れられない欲求、宿痾。いいアーティストはこれがないとね。「怒り」とともに、森高千里の表現の中核をなす要素。今回のツアーのセットが抜群にいいのは、怒りや自己顕示とか、内面に置きがちなよつほが生々しく開示されるところで、それはライブハウスというパーソナルな会場ならではというところもあるだろう。

私的モリタカ、私小説的セットリストをエンターテイメントとしてみせる試み。MCでやたら「大丈夫?」と客席に訊くのは、その確認の意味もあるのだろう。「私はもちろん大丈夫だけど、みんなは大丈夫? ついてこれる?」という。決して暑さやトイレの心配をしているわけじゃないのだ。

本稿で取り上げだこれらの曲は、リリース当初はどれもさほど目立つ曲ではなかったのだろうけれど、2024年10〜12月に取り上げることで、俄然、歌詞の、曲の意味が違ってくる。自分で書いた歌詞を自分でステージで演奏するパフォーマーだからできる表現方法なので、聴き手は単に歌詞カードに書かれた言葉を耳と目で追えばいいというものではまるでない。ステージに臨場することで初めて、彼女の世の中に対する冷徹な視点が見えてくる。

「のぞかないで」をユーロビート、と表現していた人もいたけど、新アレンジもさることながら、ボーカルパフォーマンスをこそ聴け、だと思う。初日は特に撃たれた。あれはほんとうに怒っていた。その直後のMCでそれをおくびにも出さす、ふう、と一息ついてから何事もなかったように横浜の食べ物の話なんかを涼しい顔で話し出すのもまた、森高千里の森高千里らしさなんだけれど。何回ライブを観ても、ほんと得体が知れない人です。

2024/10/06

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