ロックアーティストとアイドルの間で あるいは「他人事」について思うこと

ドラァグ・クイーンでタレントのミッツ・マングローブさんがかつて書いた森高千里ライブ評というのがあって、彼女はなんとエライことに実際に森高公演を見に行って、このライブでは森高本人が徹底して「他人事」としてパフォームしてると(ちょっとくさす調子で)書いている。いろんな見方聴き方をする人がいるのは世の常なので構わないのだし、ネットに転がっているワンフーの感想書き込みポストをテキトーに拾ってきては自分は一歩も動かずテキストをでっち上げるいわゆる「コタツ記事」よりは10000倍はマシなのだけれど、でもね、「他人事」というのはうん、気になるよちょっとさすがに。
ミッツさんも100%くさすつもりで書いていないだろうことはわかる。ギリギリのラインを縫い縫いしていく芸風作風だと伝わる。そして実際、彼女にとってもそれなりに見どころがあったライブだったのだろうと思われる、読んでると。それ以上を何をどう思うかどうかは、本人の自由意志であって、それを発表するかどうかもこれまた自由だ。噛みつき加減でもさすが手応えがある、コタツ記事よりなんかよりかはよほど。
ミッツ・マングローブは言う。「そう。“森高千里”というのは、昔からどこか『他人事』みたいに歌っている人でした。自作の歌詞に描かれる世界観も『等身大』や『フィクション』というよりも、あくまで『他人事』。」
言い換えれば脚本家が新作ドラマ用にイチからひねり出すオリジナルキャラクターのような、有り体に言えば、シンガー・ソングライターが我が身を削って産み落とすその曲の「主人公」(一人称=作詞者自身)とは遊離した「想像の産物」のようなキャラクター。そんな感覚はたしかにあるような気もする、曲によっては。「おはなし的」というか。仕事がギュッと忙しさを極める中で詞を書けというプレッシャーにとことん追い詰められれば、想像の世界からネタをひねり出すよりほかはないもの。身を削って書けって言ったって、削る身自体がない細った鰹節みたいなそんな。そういう、自分が生み出したんだけど自分の一部と言うには、という作品群が「他人事」のように聴こえてもそれは仕方ないし、それでもリスナーはリスナー自身の体験なり記憶なりを重ね合わせてそこにある種のリアリティーを感じるのだから、それは創作としては高度な所為だと思う。
他人事、という指摘がふんふん、あーなるほどたしかにもしかしたらそうかも!と感じるのは、ライブでめっちゃ熱い何曲かをステージを上手下手に動き回って渾身息を切らして、ときに肩で息をして全霊歌いきって、MCに入るとあれれれというくらい「普通に」戻るところかもしれないと最近のライブを見て考え始めている。それは本来すごいことなんだけと、曲をやりきって もう、マイクスタンドに身を委ねて崩れ落ちそうになって、みたいな「ロック」なバンドを長く見てきた自分は、MCでいきなり素になる森高さんを前に「はわわ」と思うことが(ときたま)ある。それは時としてとまどいのような感情かもしれない。
森高さんにとっては曲の演奏も、合間のMC(客席との掛け合い)も等価というか、どっちも大事なものだから、曲パートは曲パートで精魂やりきって、でも次の瞬間別のところで暖気運転していたエンジンをかけて、あの他にない空前絶後の楽しいMCを立ち上げるのだろうと考えている。常人は片方だって満足にできないものだが、彼女はワンステージで両方を控えめに言ってかなり完璧にやりきるのだから驚きだ。これはやめられない。なんだけど、そんなすでにしてハイパーで普通の感覚では考えられない異次元のパフォーマーとしての森高さんを平々凡々な常人が目の当たりにするならば、「他人事」という感想が染み出してくるのも、もしかしたら仕方ないことなのかもしれないと考えている。
いずれにしても強い麻薬性があるのが森高千里ライブ。ゲートウェイだけと実はハード。最初の処方では物足りなくなってくるので、もっともっと、と処方量を増やさなければならない。射つたびにドバっと脳内に放出される多幸感たるや、ちょっと比べられるものが思いつかない。本ツアーも残すところあと3回。さあその後の夏本番、ロスをどうやって乗り切ろうか。

2024/06/13


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