見出し画像

やわらかい風

昨日は一日中雨が降っていた。朝、コンビニエンスストアでシナモンロールとカフェオレを買って、僕は勇み足で歩いていた。水たまりを踏まないように注意をするけれど、すでに靴のつま先には少しだけ水が染みこんでいる。やわらかな風が吹く季節になったと思ったとはいえ、雨が降るとまだ寒い。

今日は一転して良く晴れて、夕方少しだけ散歩をすると多くの人が街を行き交っているのを見かけた。昨日の雨に加えて今日の強い風が、桜の花の多くを散らせていて、春めいた気分も風に乗って吹き飛ばされた気がした。

僕は毎年3月の半ば頃、つまりやわらかい風が吹き始める頃、過去のことをよく思い出す。普段思い浮かべるものとは違ってもう少しセンチメンタルな、感傷に浸りたくなるような、そういう淡い記憶だ。今年もこの時期がやってきたのだなと、何を思い出しているのか自分でもよくわからないままにぼんやりと物思いにふける。

一昨日、ナイトモードにしたスマートフォンの画面を漫然と見ながら考えていた。今の季節を感じるとき、過去を引き合いに出さずにそれをすることができないだろうかと。どうしても浮かんでくる記憶の断片を全く否定することはないだろうし、何より自分の立ち位置を確認するのに必要なものだと思う。とはいえ、時にそれらがひっかかって、きちんと季節に向き合えていない気もしてしまう。


こうした比較は、自分や誰かのことを考えようとする際にも当てはまる。その場合には、過去と現在というよりは、自分と他人と何かの基準という比較だけれど。自分のことに思いを巡らせる時、誰か他人について考える時、つい比べてしまう。そして誰かに比べられたような気がしたとき、たまにムキになって、疲れる。

それでも、昔ほどは比較しようと思わなくなった気もする。というより、そういう相手とか機会がなくなってきたといった方が正確かもしれない。喜ばしいものなのか、悲しいものなのか、よくわからない。こう言うときに、急に糸の切れた凧のように、行く当てもわからず漂う感覚になる。

こんなことを考えるようになったのは、ここ数年で出会った友人たちによるものが大きいかもしれない。彼らは、はたから見ると人と比べるよりは自分のことについてよく考えて行動しているように見える。センスの有無や上手い下手の如何にかかわらず、好きなこととか考えたいこととか、そういうものがあって現在取り組んでいるものがある。僕は純粋に良いなと思う。

僕自身はどうかと考える。自分というものを、競争とか優劣とか、そういう枠組みで位置づけることが多かった気がしていて、そしてそれは誰かのことを考える時にも影響しているように感じる。何かの基準に目の前の相手と自分を当てはめて比べてみる。僕は、不安に駆られるか安心する。

しかしながら、そういう行為は空しいばかりか自分を見えなくさせるのだと思うようになった。いったい、どんな基準が共通項として自分と相手に適用できるのだろうか。過ごしてきた環境や目的も異なっているのに、人と自分を無理やり比較しようとすれば、多くを取りこぼすばかりか、それだけしか人の理解の方法がないように思えてしまう。

まるで、もう一人の自分が公園の砂場で一人遊んでいるのにも関わらず、僕は他の場所で遊ぶ人たちに場当たり的に近づいて、何かにつけて比べ、そして時間がたてば去っていことを繰り返すような、そんなことをしていた気がする。誰かの隣で比べていることは安心するけれど、それは消極的なものだ。遊ばなくなるかもしれないし、飽きてしまうかもしれないが、僕も一緒に砂場で寄り添うのが良いのだと思う。


もちろん、比較することと競争することや優劣をつけることは同じではないと思う。いまこうして書いてみて気づいたことではあるけれど、そういう理解の仕方について考えてみたい。

風を感じる時、その風自体に思いを馳せることができるだろうか。風を通じて過去を思い返し、自分のことを振り返ることもできる。風と何かを比べることもできる。しかしただそれだけではなく、風自体を感じる仕方で...。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?