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「個性」に不寛容な時代?

発達障害の可能性があり特別な支援が必要な小中学生は通常の学級に8.8%、11人に1人程度在籍していると推計されることが文部科学省の調査で分かりました。前回10年前の調査から増加しており、支援の充実が課題となっています。

調査方法などは一部変わっているものの、前回10年前の調査の6.5%から増加しています。

文部科学省の有識者会議は増加の背景について、見過ごされてきた子どもも把握されるようになったことに加え、活字を読む機会や会話の減少など、生活習慣や環境の変化による影響も考えられるとしています。

発達障害の可能性がある小中学生は学級に8.8% 文科省調査
NHK ニュース

ふーん。「発達障害」の人の割合、この数字だけみれば3倍近くか。数字だけ見ればすごく増えた印象。だけどそもそも「発達障害」の定義って

「発達障害」は「自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能障害であってその症状が通常低年齢において発現するもの」

政策レポート(発達障害の理解のために) - 厚生労働省

ってことでしょ。でもこの調査って推定だけど記事見た限り児童の脳にCTとかMRIを当てて調べたというより「問題行動」のある生徒をあげさせたって感じでしょ。

であれば、今まで「見過ごされた子供」というよりは「見過ごすことが出来きなくなった子供」が3倍に増えたって見ることも出来るような。あるいは「グレーゾーン」の子供を今回は積極的に数に入れたか。

でも、「発達障害」の子供ってなんだろう。脳機能障害っていうけど、多分この測り方であれば、ちょっと落ち着きのなかったり、学習の進みが遅かったり。仮にその程度であれば「障害」という名前は少し重いのではないのだろうか。

もう少し踏み込んで言うのであれば、完全な合理的判断がでるかどうかということで発達障害か否かを診断するのであれば、人類はみな「発達障害」であろう。

思い返すと、私が子供の頃は、多少のんびりでも、多少落ち着きがなくても、多少学習が出来なくても、いわゆる知的障害を持つ子供以外は(そんな感じの子供でも一定以上では普通科に入れられていた気もするけれど)普通の子の「個性」として受け入れられていたと記憶している。

「発達障害」の人がフューチャーされてきたのはこの10年くらいのことだと思う。科学の進歩とみることも出来るのかもしれないが、個人の「個性」を受けいれず「発達障害」というレッテルを貼っているようにも見える。「個性」に時代が不寛容になっているとおもうのは私だけだろうか。「個性」を受け入れる余裕がなくなっているとも言えるか。ゆえに「発達障害」のボーダーが下がった。

人と自分の「個性」の違いを「障害」のあるなしで説明する。それは、障害のある側・ない側ある意味で楽なことなのだと思う。その一言で済ますことが出来るから。でもそれって健全なことなのだろうか。「障害」の種類・軽い重いだってそもそも人それぞれでしょう。そんなこと偏見以外のなにものでもないのではないか。

小学校を退学し、ミミズやヘリウムガスを友達に食べさせようとしたエジソンだって立派な偉人じゃないか。

発達障害を持つ人への科学的なアプローチは必須だと思う。だけれども、そんなことよりも大事なのは、(楽な道ではないのは理解しているが)能力の巧拙はあるけれども他者の個性を尊重するという態度ではないだろうか。