北条政子について(2)
幕府と朝廷の関係は、融和策のリーダーであった実朝の死後悪化します。子供のいなかった実朝の後継の将軍に朝廷は皇族から将軍を出すことを望みますが、幕府側の代表である政子の弟の北条義時はこれを拒否しました。この件は義時の要求が通ったのですが、朝廷と幕府にしこりが残り、特に朝廷側のリーダーである後鳥羽上皇は北条義時に大きな憎しみを持つことになりました。
将軍後継問題の二年後、1221年義時追討の命令が有力な関東の武士に対して出されました。また、後鳥羽上皇自身も兵を率い挙兵しました。