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楽しみは自分で見つける

「姿勢」って大事だ。背筋の話ではなく、「振舞い」の話をしたい。そうは言っても、人様に指南できるような者でもござらぬ故(言葉がおかしい……)、私的見解として捉えていただければと存じます。

私は、好奇心が強めで、学ぶことが好きだ。学校の勉強が大好きだった。何が起こるかわからない(予習して来い)実験なんて特に楽しくて、大抵は先生の目の前か前列で見つめていた。模型を片っ端からいじるのも大好きだった(構造がわからず、元に戻せなったこともあったけれど……)。読書や人から教えていただくのも、自分で調べて深堀に深堀を重ね一周回って戻ってくるのも大好きだ。学んだことを書き留めたり(超メモ魔なの)、人に話したりするのも大好きだ。教えてもらう中で、気になることや、わからなかったことは、先生を出待ちしたり、研究室を訪ねたりして、納得するまで説明してもらい、理解を深めたものだった。

図書館なんて最高で、自分の身長の数倍はある本棚にびっしりと陳列されている本を見上げては、数千年前から現代にかけて存在した(する)天才たちの智恵の宝庫に「ああ、なんて素敵なんだろう?私の知らないことがこんなに沢山あるなんて!」と歓喜するくらい、心を持っていかれる。この感覚は、大人になった今も変わらない。

私は、現在の仕事において、先生と呼ばれる方たちと一緒に業務を進めていく機会に恵まれている。生徒としてではなく、運営側として関わらせていただくのだけれど、講義の際は、教室の片隅で、耳をダンボにして先生の話をきいている。生徒ではない私に教科書はない。だけど、教室の中の誰よりも板書を写している自信がある。そして、そのうちに先生が気を遣って教科書や教材を下さったり、「質問があったらどうぞ」と言っていただくこともある。一日通しての実施する講義の場合は、運営側の役得として、先生のお昼ごはんにお付き合いさせていただくこともあり、その際は、授業の詳細や裏話、時々、カウンセリングっぽいことをしていただくこともある。こういうのって楽しくて仕方がない。自ら求めたからこそ得られるものだから。

最近、「私は何故、学ぶのか?」ということについて考えを巡らせていた(ここから、自問自答が始まります……)。

「何故、学ぶのか?」と問われたら、「学ぶことが好きだから」と答える。

「何故、学ぶことが好きなのか?」と問われたら、「知らないことを知っていくことが楽しくて仕方がないから」と答える。

「知らないことを知っていくことが楽しくて仕方がないのはわかったけれど、その先に何を求めるのか?」と問われたら……「よりよく生きたいから(某教育会社みたい)」と答える。

「よりよく生きるとは何か?」と問われたら、「自分の持っている能力を全部活かし、思う存分に生きていくことだ」と答える。

「自分の持っている能力とは何か?」と問われたら、「『何故?』と問う『好奇心(探求心も含む)』と、『どうしたら?』と考える『思考力』や『想像力』だ」と答える。他にもあるかもしれないけれど……今、ぱっと思いついたのはこれだ。私は学ぶことが好きで、知らなかったことや、できなかったことを知ったり、できるようになることがたまらなく好きなのだ。好きなの。勉強が好きなの。

たまに、「学校の勉強はしなくていい」とか、「意味がない」という大人もいるけれど、私はその意見に反対だ。……浅はかさを感じるのだ。「『活用することができなかった』のですね?」と思う。私の好奇心や思考力を育てたのは間違いなく、学校教育だもの。ただし、ただの学校教育ではない。知りたくて、知りたくて仕方なくて、自らずんずん進んで、学びとった「前のめりで掴んだもの」である。そして、何よりも絶対に忘れてはならないのは、知りたがりが答え探しに奔走していることを抑えつけることや鬱陶しがることなく、学ぶ機会を与え続けてくれた大人がいたからに他ならないということだ。

勉強だって、仕事だって「やらされている」と思ったら退屈なものになる。一方で、「やってやる」とか「さあ、次は何だ?」って自ら進んでいくのなら、前者とは全く違う世界が見えるんじゃないかな。何が好きでも嫌いでもいい。姿勢の違いが結果に大きな違いをもたらすのは間違いないと思うのだ。自分への戒めとしても、心に止めておく。

いつだったか、尊敬する人が言っていた。

「楽しみは自分で見つける」って。

依存ではなく、自立を。前のめりでいたい。「教えてもらう」という受動的な姿勢ではなく、「学び取る」という能動的な姿勢でいたい。学ぶ以外でも、自ら面白いものを求め「掴み取る」という自立した姿勢でいようと思う。その方が、毎日が楽しそうだもの。

お付き合いいただきありがとうございました。

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