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しなやかに、のびのびと

現在、私はとある実験中だ。対象は自分自身で、日々、自分の観察をしている最中である。外出自粛で直接人に逢うことはできないから、普段、他者や身の回りの環境等、外に向いている意識が内に向きがちだ。それならば、この類稀なる機会を存分に堪能しようと決めたのだ。自分観察……実験と結果の考察と、そしてまた実験……ざっくりと感想を言うと、面白い。一方で、「ちょっとしんどいかなあ」と思う時もある。強さも弱さも、心地よさも「なんだかなあ、これどうなんだろう?」と思ってしまうような自分も浮き彫りになるのだから。いつもにも増して、心は慌ただしく揺れている。しかし、その揺れもまた、今の私にとって絶好の観察対象だと捉えている。

喜びも怒りも哀しさも楽しさも、今は抑えないと決めた。遠慮しない。今なら誰も傷つけることはないと思うからだ。さあ、自由にすればいい。

つい最近まで、私は私のことを「感情的であり、これは隠さなくてはいけないのだ。」と思っていた。けれど、「感情的とか、情緒不安定というよりも、感受性が強いのだ。」ということをここ数年で知ることになった。それをきっかけに、感情の大切さを心から理解することができた。

私ときたら……誰かが泣いていたらその感情を貰ってきてしまうし、高校野球や箱根駅伝は感動シーンでもないところで、選手のこれまでの苦労とか努力や選手だけでなく家族や監督の想いを勝手に想像し、涙で画面が滲んでしまう。「はじめてのおつかい」を見れば号泣するし、ふとした瞬間に何年も前に道行く人に優しくしてもらったことを思い出し、その瞬間に「うう……」となったり、そうかと思えば、嫌なことを思い出し、「こんちくしょう」と怒りが鮮明に蘇ってきたり、急に家族や友人に感謝の気持ちが溢れて夜な夜な一人で泣き始めたり……と、まあ毎日が忙しいのである(……勿論、周囲を確認した上での行動で、節度は守っているのでご安心くださいませ。)。

ここで時を遡り、私の感情との付き合いの歴史について、もう少し語らせてもらいたい。10代半ばの頃、私は自分の感情についてこう思っていた。「私の感情の起伏は抑えなくてはならないものなのだ。この感情は、今後私が生きていく上で妨げになるかもしれない。周りに迷惑をかけるかもしれない。いざという時の足手まといになるかもしれない。ならば、抑えよう。抑えるための術を身に着けよう。」と決めた。それからというもの、どのようにしたら感情を抑えられるのかを研究し、自分なりの方法を見つけて実践してきたつもりだ。長けるにつれ、自分の事がどんどんわからなくなったのだけれど。自分の事がわからないと自分に自信がなくなるものだ。自分に自信がなくなると、相手のことを羨ましがるようになる。それを起爆剤として頑張るのならいいのだけれど、妬み始めると始末が悪い。そう、比較的、後者だった。

大人になるにつれ、感情を抑えることに長けてきた(つもり)結果、抑圧された感情は行き場を失った。私に必要だったのは、抑える方法ではなく、表現する訓練だったのだ。よく考えればそれはそうだ。思い切り振り切る経験がなければ、調節の仕方を学ぶことができない。感情表現の仕方がわからないまま、大人になってしまった。抑えようとしても零れ落ちる厄介な感情は、観察・分析・思考を繰り返すことで消化してきた。……今思えば、苦しいだけで、消化なんてできていなかったのだけれど。

話を元に戻したい。

「心が動くということは、生きているということ。」私は、以前、友人が教えてくれたこの言葉が大好きだ。感受性が強い私が悩み続けてきた、激しく感情が揺れ動くことを全肯定してくれる言葉だと思ったからだ。

心が揺れている状態がわかるということは、自分の中心からずれているということ、ずれているということがわかるということは、よく観察すれば、自分の中心、自分が大切にしている想いや考え方がわかるかもしれないということだ。宝物はそこに隠れている。

私にとって、今は他者の感情からの影響を最小限に抑えた上で心を動かす訓練ができる大チャンスだ。自由にのびのびと伸ばした結果、どんな自分を発見するのだろうか?もちろん、この実験を通して見つけた自分にも固執することなく、しなやかにのびのびと感情を表現できる自分でありたいと思っている。どんな自分に出逢えるのか?楽しみだ。

心は動いていいの。心が動くから人と心を通わすことができるの。心が動くから、感動することができるの。感動することができるから、素敵なものが生まれるの。生きているから、心が動くの。生きているから、できることなんだよね。しなやかに、のびのびと、表現すべし。

お付き合いいただきありがとうございました。

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