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わたしのこと

新しい場所なので、まっさらな気持ちで自分のことを綴ってみようと思います。

1990年9月12日。
埼玉県で生まれ、千葉県で育った。


平凡な家庭の長女、だと思う。

そんなに裕福な家庭ではないけど、なにか不自由があるわけではなかったと、
そんなことは大人になった今だから分かる事で、子どもだった私にとっては不満と理不尽だらけだった。

ひとつ下に弟が、五つ下に妹が産まれた。

まだまだ親の愛を一人占めしたかった幼い私は、わがままを言う以外の甘え方を知らなかった。
お姉ちゃんの役割を果たせるほど、私の内面は育っていなかったのだ。

困らせる方法以外の甘え方を知らない私は、そんな方法でも愛されることにただ必死だったし、何もせずただ存在しているだけで愛されているように見えた弟と妹とは、どうコミュニケーションをとったら良いのか分からなかった。



小学2年生の頃、円形脱毛症が見つかった。
母に連れられ行った病院では、【膠原病】と診断された。

それがどんな病気かは分からなかったけれど、それから月1で通うことになった病院は、なんだか自分だけの特別な時間のように感じていた。

母の時間が自分のために使われていることも、母の意識が自分だけに向いていることも、本当は嬉しかったし、たまに父が連れて行ってくれることもあった。

みんなが学校に行っている間、私は血液検査をして頑張ったご褒美にコーラを買ってもらう。
大好きな父と母。普段は忙しく、弟と妹を育てている二人を、唯一独り占め出来る時間。

今思い返すと、あの頃の私にとって病院とは、特別な時間だったんだ。


中学になり、小学校から6年間ずっとクラスが一緒だった子と、初めてクラスが別れた。

毎日顔を合わせ、家も近所だったのでよく遊んでいた、兄妹というには大袈裟だけど、仲の良かった男の子。

隣りのクラスになり、ほんの少し顔を合わせないうちに、知らない男子になっていた。
声も変わり、身長も少し伸びて、いつものようにあだ名でふざけて話せるような雰囲気はなく、無言で横を通り過ぎた。

よく見れば周りの子もそうで、気付けばほんの少しメイクをしていたり、スカートの丈を短くしていたり。
眼鏡っ娘だった私は、なんだか乗り遅れたような気がして、急いで母にお願いした。


「私、明日からコンタクトにする!」


当時は、眼鏡もコンタクトも今よりずっと高くて、それでもお得意のわがままで押し通して、眼科に行った。

それから見よう見真似でメイクもしてみたら、お父さんに「化粧なんてまだ早い!」と怒られた。

周りの子はやっているのに、私だけやらせてもらえない。
何かかみんなと違う、そんな悩みが生まれたのは、この頃だったのかもしれない。


思春期の変化のストレスと、相変わらず家では弟と妹への嫉妬。
中学生になった私のわがままは、もう可愛いものではきっとなくて、親とも喧嘩ばかりだった。

私の心の中で何かが弾け飛んで、学校をサボるようになった。

学校に行きたくないし、家にも帰りたくない。
そんな中、しょっちゅう隠れていた場所は、近所の小さな神社と図書館だった。

大人になって知った弁天様


本を読んでいる時間は、何も考えなくて良かった。
本の世界では、私は自由だった。

それから私は、小説を書きはじめた。

インターネットでサイトを作って、本を読むか、小説を書くか。
起きてる時間はそれだけをしていた。

そうしていたら、学校にも行けるようになって、でも頭の中は常に物語の中だった。
浮かんだことをノートにメモして、家に帰って文章にして綴って行く。

中学校で何をしていたのか覚えていないほど、妄想だけをして過ごしていたら、いつの間にか高校受験の時期になった。
ちょうどお父さんが大阪へ転勤になり、私も合わせて急遽大阪の高校を受験することになった。


大阪の高校情報なんて、周りの大人たちは誰も何も知らなかった。

妄想だけをしていた私は、とびきり頭が良い方でもなく、「絶対受かるところにしよう。」と決められて受けた高校は、本当に”絶対受かるところ”だった。



「東京の子やん、おはよー(イントネーションは上あがり)」

高校生活では、これが毎日のお決まりだった。
同じクラスの子だけでなく、違うクラスの子までも、すれ違うたびに私に声をかけてきた。

「東京じゃない」

って言うのも面倒くさくなって、私は東京の子になった。

引越し先は、一軒家だった千葉の家から、家族5人とチワワ1匹で住むには狭すぎる、3LDKのマンションだった。

地元では”荒れている”ことで有名な中学に、3年生から入学した弟は、みるみる内に変わっていき、


「俺は絶対タバコは吸わない」


とあんなに言っていたくせに、大阪に引っ越してから2年後には吸っているのを見て大喧嘩してから、一言も口を聞かなくなった。

なんたって狭い家だから、家庭内の雰囲気はどんどん悪くなっていったように思う。 

そんな中唯一の癒しだったのが、小説を書くことで、ただ淡々と自己満足で更新し続けて、気付けば4年ほど経っていた頃。
一件のアンチコメントが入った。

今までそんな経験はなく、そんなことが起きるなんて想像もしていなかった私はびっくりし過ぎて、4年間ただそれだけを考えて、自由に表現し続けてきたものすべてを削除した。 

4年間の私の起きてる時間のすべてだった、私の純粋な表現と創造は、一瞬にして消えた。

そして私の心は、呆気なく砕けてしまったんだ。

それからの私は、バイトと恋愛に走り出した。
削除したすべては妄想で、意味のない時間だったとそう思うことで現実を生き始めた。


初めて付き合ったのは高校3年の時。
バイト先の先輩で、3つ上の大学生だった。

父親はお医者さんで、彼も医学部で一人っ子。
うちとは全然違う家庭環境だった。

きっかけは数学を教えてもらうことだった。

いつも頭の中で思い描いていた、甘い青春のような恋愛。
実際は、妄想のように思うようにはいかなかった。 

勉強で忙しいことを理由に、付き合ってから会うのは夜だけだった。
まともなデートなんてしないまま、初体験は彼の車の中。
気持ち良いかどうだったかそんなことよりも、ただ狭かった。

初めて好きになった年上の彼。
という人物設定が、妄想しかしないで生きてきた私の性癖に刺さったんだと思う。 

本当の彼の姿からは目を背けて、自分の脳内で作り上げた人物像を好きになり、そんな彼を信じていたし、どれだけ周りからは止められても、それさえもドラマチックに感じていた。

そんな夢から目が覚めたのは、初めて産婦人科に行った時だった。

成人式を迎えた私に彼は「お祝い」だと言って、その夜何度も中に出されたのだった。


翌日、一人で産婦人科に行った。
待合室には大事そうにお腹を撫でる妊婦さんたちがいて、居た堪れず下を向いたまま呼ばれるのを待った。

呼ばれたのは一番最後で、先生に「自分の身体を大事にしなさい」と諭された時、おかしいことに気づいたのだった。

病院から出た後、彼に電話をした。

産婦人科に行ったことを伝えると、その電話の中で「別れよう」と言われた。
前からずっと考えていたのだと。

それはいつから?なぜこのタイミングで?
あなたがそれを言うの?

聞きたいことはいっぱいあったし、今思い出してもやっぱりおかしいのだけど、なんせ憧れをたくさん投影した”初めての彼氏”だったのだ。

見たこと、聞いたこと、本当はずっと感じていたこと、思っていたこと。
全部が「やっぱりそうだったんだ」と思う反面、私の頭は理解したくないと必死に抵抗して、選んだ道は現実逃避をすることだった。



高卒で大手スーパーに就職した私と、彼と別れた私は同時期だった。
災難は続くというのはまさにこの時期のことで、恋愛で負った傷を引きずったまま、仕事は仕事と割り切れるほど器用な自分ではなく、仕事ではミスが続き、上司に呼ばれることも増え、さらにこの時、【膠原病】と合併して、【全身性エリテマトーデス(SLE)】の診断も下りた。

親からも注意され、上司からも注意され、どこに行っても息詰まりを感じていた20歳の私は、夜な夜な遊び呆け、家にも帰らず、仕事も無断欠勤を続け、そのまま辞めた。

どこかでちゃんと出来ない自分への後ろめたさがあった。

だからこそ”大人”に会いたくなかった私は、現実から逃げるように夜の世界へと入っていく。
そこには同じように社会からはみ出た人たちが集まり、本性を露わにして狂っていた。

遠慮しなさい、普通でいなさい、目立つんじゃない、良い子でいなさい。
聞き飽きた台詞はそこでは真逆だった。
遠慮してたら置いていかれるし、普通である方が「つまらない」と弾かれる。そんな世界だった。

くだらないことで笑って、同じように恋愛になると駄目になる子達ばかりで、みんな馬鹿なんだけど一生懸命で。
妄想ばかりしてあまり人と打ち解けられなかった学生時代に逃した青春を、やり直しているような気分だった。
世間に胸張って言える仕事ではなかったけど、私はとても好きだったのだ。



この頃家にはほとんど帰らなかった。
帰っても昼間は寝ていて、家族と顔を合わせることもない。
そんなある日、父は私に言った。

「今月末いっぱいで引っ越しだから」

千葉へ転勤になり、大阪を離れるのだと。
カレンダーを見るとあと2週間もなかった。


「絶対私は一緒に行かない!」

大声でそう言った。

「今からどこか部屋を借りれるなら借りてみろ!」

そう言われた時に、あえてギリギリまで言わなかったのだと悟った。
余裕持って伝えれば、私が用意して出て行くと思っていたからだ。

私はどうにかして最短で稼げる仕事を考えた。
そして私は、さらにディープな風俗の世界へと進んだのだ。


本当に無理だったら辞めようと思ってた。

だけど初仕事は思っていたよりも、「こんなもんか」というのが正直な感想だった。
そして2週間後には、大阪のど真ん中に自分の部屋を借りていた。

父と同じ歳くらいの人たちが、欲情していく様子を眺めながら、やっぱりここでも人の本性に出会うのだった。

普段涼しい顔をして歩いている人も、恐そうな顔をしている人も、その奥にはこんな感情や表情を隠し持っているのだなぁと。


笑っていればいい。黙って体を差し出せばいい。馬鹿でいればいい。か弱ければいい。
そうしている方が好かれる世界でなんだかんだ2年ほど。

私の中では、欲望と嫌悪と憎悪がどんどん膨らんで、気付けば摂食障害になっていた。

精神的にもう辞めたいのに、辞めたくなったらいつでも辞めるはずだったのに、いつの間にか辞められなくなっていた。

辞めたところで、自分に今更なんの仕事が出来るというのだろう。
出勤すれば満員になるくらいには、人気とリピーターと安定した給与があるそんな環境を手放せるほど、次にやりたいこともなかった。

人生についてなんて考えたこともなかったのに、気付けば22歳を迎え、このまま私はどうなるのか、いつまでこんなことを続けるのか、人生に対する不安が精神をどんどん蝕んでいった。


「いっそのこと死んでしまえたら楽なのに」


いつまで生きていればいいんだろう。いつからこうなってしまったんだろう。
そんなことばかりを考えるようになっていた。

そんな時だった。
全身性エリテマトーデス(SLE)の症状が悪化したのは。

右頬の脂肪が溶けて無くなるという症状で、命に別状はないけれど、外見にかなり支障が出た。
なんせ右顔だけ陥没しているのだから。

「もあ(当時の源氏名)、なんか顔おかしくね?」

当時狂ったようにネットで自分の評判をチェックして一喜一憂していた私は、いよいよその言葉に折れてしまった。


掛かりつけの病院に行き、手術を決めた。

形成手術になること、全身麻酔を使うこと、短期間入院すること。
事務的に淡々とされる説明を、同じように淡々と聞いていた。

「全身麻酔における危険性を十分ご理解いただいた上で麻酔を受けることを同意していただけるのであれば、こちらに署名をお願いします」


全身麻酔の同意書を読んだ時、「そうか、これは死ぬ可能性もゼロではないんだ」と思って、一瞬血の気が引いた。
プチ整形を受けるような気持ちでいた自分に、現実を見せられたようだった。

震える手でサインをして、沈む気持ちで家に帰った。

思ったより早く予約を取れたことで、気持ちの準備もままならないまま、入院の準備をした。
家族に伝えたのは、入院の前日だった。



手術前日。

お母さんといとこのおばさんが、急いで病院にやってきた。
2人は何も言わず、久しぶりの大阪を満喫するんだと笑って言った。

一人だけ父母について千葉に帰った妹は、高校生になっていた。
そんな妹から、「手作りのクッキーと手紙を預かってきた」と、母に手渡されて、2人は病室を出て行った。

「お見舞いに行けなくてごめんね、形悪いけどクッキー食べてね。手術頑張ってね」


そう書かれた手紙とラッピングされたクッキー。

妹がクッキーなんて作ってるの見たことなくて、そういえばすごく、すごく昔に私がよくクッキーを焼いていたことを思い出した。

父からは電話が来て、多くは語らなかったけど、「明日頑張れ」と言われた。


この時までは「みんな大げさだなぁ」と思ってた。
仕事休んでまで、お母さんも来ることないのにって。

だけど手術の前夜に、全身麻酔の説明を再び思い出し、もしかしたら明日死ぬのかもしれないと思ったら、一気に恐怖が私を襲った。


「このまま死んだら、何もない」


偽名を使って生きてきた今までだった。
本当の自分を知る人なんて誰もいない。
今私が死んだら、誰が私のお葬式に来るのだろう。

そんなことを思いながら泣いた。



手術は朝一だった。

「押されるよりも先に押すことになるなんて思わなかった」
と、母に車椅子を押されながら、手術室の前まで行った。

看護師さんに変わって押される前に、「じゃあね」と私は明るく言ったつもりだったけど、本当にそう出来てたのだろうか。

手術室の扉の奥に入ってから、涙が止まらなかった。
今まで、何年もの間抑えていた純粋な感情が溢れ出した瞬間だった。


目を覚ました時に、一番初めに見たのは母の顔だった。
朦朧とした意識の中で、何を考えるでもなく自然と涙が流れていた。

一緒にいたのはおばさんと弟だった。
お互いにグレて、口も聞かなくなった弟。
知らぬ間に大きくなって、泣いている母を支えていたのは大学生になった弟だった。

手術直後。陥没した右頬への移植手術でした。


3時間程度で終わると言っていた手術は、結局9時間かかっていたらしい。

待てども待てども終わらない手術に、本当に心配したことを伝えられたのはそれから数日してからだった。

1週間ほどで退院出来ると聞いていた入院も、なかなか退院するまで回復せず、2ヶ月ほどしていた気がする。

その間、私は憑き物が取れたように、静かに自分のこれからの人生を見つめていた。

居場所がないと家族に抵抗して、反抗していたのは私だけだったのだ。
自分は邪魔者だと思って劣等感だけを抱えて生きてきたけど、そんなことなく、いつだって自分は愛されていたのだ。
死にたいなんて思っていたけど、本当は死にたくなんてなかったのだ。
大嫌いだと思っていたけど、大好きだったのだ。


そのとき久しぶりに見た空の清々しい青と春の風が、私を優しく癒していった。



退院した私は、母に、千葉に戻ることを伝えた。
大阪に一人残ったのは、そこに何か大切なものがあったわけではなく、ただ意地を張っていただけだったから。

なけなしのすべてをかき集めて、引越しをした。
付き合いの長かったお客さんたちに、「もう戻って来るなよ」とエールを送られながら、ようやく私は引退した。




久しぶりに一緒に過ごす家族との時間は、待ち焦がれていたはずなのに、思うようにはいかなかった。

その理由はお金だった。

手術後とはいえ、働けないわけではない23歳の私。
特に何かを手伝うわけでもなく、家にお金を入れるでもなく、ずっと家にいることが母にとって不満だった。


喧嘩が増え、「帰って来るんじゃなかった」と本心ではないことを思うようになった時、近所の雑貨屋がアルバイトの募集を始めた。

徒歩3分。自転車で1分。
そんな好立地にあって、あまり忙しそうではない(偏見)そこは、いろんな意味で病み上がりの私のリハビリに最適なのではないかと思った。


喧嘩するくらいなら家から出る。
そんな考えは昔から変わりがないのだと、いま振り返りながら思う。
喧嘩してたって何かが変わるわけじゃないのだから、試しに働いてみようと思った。


面接で即採用を受けたのは、面接官が男性だったからだろうか。

「大変なこともあると思うけど、」

そう言われたけれど、前の仕事と比べたら大変なことなんて何一つなかった。
職場の人との関係性も、多少合う合わないはあっても、あんなあからさまに喧嘩売られることもないし、誰かにインターネット上で悪質に批判されることもない。

お客さんが多いお店ではなかったので、掃除が1日の大半だったけれど、何かに夢中になることが久しぶりだったので、自ら進んで掃除ばかりしていた。


自分が掃除したところにお客さんの足が止まること、自分が丁寧に陳列し直したところから商品が売れて行くことが嬉しかった。
そうしていたら、与えられた担当の商品カテゴリーの売り上げが前年の10倍になったらしい。

働き出して半年後。

私を採用した人事の男性と、当時店長だった女性2人の推薦を受けて、私はそのお店の店長になった。

少しずつ、私の人生に光が射し始めたのはその頃だった。


いろんな経験をしてきているようで、まともな経験は何一つしてこなかった私は、生まれて初めて何かを学んでみようと思ったのだ。

メイクもファッションも立ち振る舞いも、夜の世界のそっち系のことしか知らなかった。
もう戻る気はないのだから、一般的な女性について学んでみようと思い、出会った女子力アップ的な講座に申し込んでみた。

そこで感じたことは、私は今までこういうことを仕事でしてきたけど、仕事ではなくても女性はこういうことをするのだな、と。(もう9年ほど前のこと)
こういうメイクの方が男性受けがいい、こういうときはこういう仕草を。
私は仕事だからやっていたけど、仕事じゃなくてもやるのは私は無理…!と若干引いていた。


だけどそこで出会ったのが、四柱推命だった。

今まで占いを受けたことがなかったけれど、興味がないわけじゃない。
そこでの出会いによって初めて”自分を知る”ことになった。


占ってくれた彼女も始めたばかりで、そんなに多くのことを言われたわけではなかったと思う。
だけど、「舞ちゃんはこういう人だよ」と出て来るワード一つひとつに心当たりしかなかった。

占いってこういうものなんだ!と感銘を受けたし、もっと早く知りたかったし、もっとたくさん知りたくて、その場で先生を紹介してもらい、すぐに会いに行った。

四柱推命を勉強して、そのあとどうするかなんて考えていなかったし、お金もなかった。

でもそこをなんとか…!と先生にお願いして、特別に分割対応をしてもらい、東京まで毎月四柱推命の学びが始まったのだ。



知れば知るほど面白く、希望に満ち溢れていた。

今までの私も、今の私も、より良い未来の私も、なんら変わりのないたった一人の私なのだ。
何かが悪くて今までの人生がああだったわけじゃない。

私に”そういうところ”があっただけ。

ただ今までの私は、自分の中にある”そういうところ”を受け入れることができず、わがまま以外の甘える方法を知らず、笑っていればいい。黙って体を差し出せばいい。馬鹿でいればいい。か弱ければいい。そう思って、【誰か】になろうとしていただけ。

私は私なんだ、と初めて自分を認めることが出来た。


命式と呼ばれる、自身を表す性質表。


それから私は、雑貨屋で店長として働きながら、その傍らで四柱推命の勉強と鑑定を始めた。
今のようにまだここまでSNSが広まっていない中で、アメブロを始め、久しぶりに書くことを再開した。

Facebookを通して知り合った人に、ダイレクトメッセージを送り、対面で鑑定の練習をさせてもらう中で少しずつ、【社会の中で生きる人と、社会からはみ出て生きてきた私】その思いがひとつに混ざり合い、【人として同じ世界に生きる私たち】になり出した。

当然、鑑定をしているときに見る姿は、表向きというか、人としての姿であって、夜の仕事で見てきた人たちのような本性的な姿ではない。
だけど、鑑定を通して話しているうちに、「こうであるべき」と演じている自分と、本当の自分と、その乖離によって現れる本性があることが分かってきた。

そうやって話していくことで、過去に出会った人たちに対しても、なぜああであったのかを理解することが出来て、私の中で赦しと癒しが起きていった。


過去に見てきた人たちと、四柱推命を通して見てきた人たち。
その二面の解釈が混ざり合い、生まれたものを、私は【子宮推命】と名付けた。


「どんなに素晴らしい人も、どんなに落ちこぼれた人も、すべての人間は子宮から生まれた同志で、そこに優劣はまったくないのだ。」


過去に散々人と比べて、自分は劣っていると思っていた自分に向けて。


子宮推命と名付けてから、自分の中でも勢い付き、なんだかんだ3、4年続いた雑貨屋の仕事を辞めて、東京に飛び出したのはもう8年前のこと。

子宮推命鑑定をして、子宮推命スクールを始め、今はそれを全部やめて、DVDに収録して販売しています。


その後の話は、noteでは気が向いたら書いていくとして。
気になっていただけたら、下記を覗いてみてください。


嘘しか付いて来なかった人生から、手術と入院をきっかけに、今は自分の気持ちに正直に生きています。

そうやって生き始めたら、人生がとても輝き出して、今は長崎県壱岐島に白いログハウスを建て、もうすぐ完成!


壱岐島リトリートハウスマノア(平家)
こちらは二階建て


まさかこんな壮大なドラマが、妄想ではなくノンフィクションで、しかも自分の人生だなんて!
人生って本当に面白いですね。


今、また新たな出発点に立っています。
こうして目に見える大きな結果が生まれると、どうしても比較されてしまったり、私自身もそれに捉われたりしてしまうのだけど、こうして改めて人生を振り返ってみて良かったです。

だって私は、すごい結果や何者かになることよりも、本当に大切なものを大切に出来るようになろうと、そう思って生きてきたのだから。


假屋舞

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